射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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射手座の男 8

 バレンタイン・デーは恋人同士の日だからデートするぞと甲馬が言った。 バレンタイン・デーは恋人同士の日だから嫌だと寺本は言った。チョコをよこせと甲馬が言った。寺本は小鼻を膨らませて絶対に嫌だと言った。 そして結局、寺本の午前のピアノのレッスンが終わった後デートすることになった。
 しかしいくら待っても約束の場所に甲馬は現れない。いつもすっぽかしている報酬についにすっぽかされたかと思い、寺本はそのまま帰ろうとしたが、念のため甲馬のマンションに電話してみた。
 十回ベルが鳴った後、死にそうな声が「もしもし」と言った。

 寺本が粥の入ったどんぶりを盆に載せてキッチンから入って来た。
「今朝から何も食べてないんですか?」
 ベッドで目を閉じたまま甲馬がうなずく。寺本は枕元のサイドボードの上に盆を置いた。
「熱、何度あるんですか?」
 赤い顔の額に手の平を当て、すぐに離す。
「うわ、ものすごく熱いですよ」
「あーん」
 甲馬はベッドの中で大きく口を開けた。その口の周りにはうっすらと髭が生えている。
「あーん」
 エサをまつ亀のように口を開けたままじっとしている甲馬を見て、寺本がまた不機嫌な顔になった。
「だから僕に女の子を求めないで下さい。これは男の料理です。卵しか入ってません。チョコも入ってません」
「求めるよ。お前が何と言おうと求める」
 寺本はその場を立ち去ろうとする。
「お前には男も女も求める。それはお前が男だからじゃない。お前が女だったとしてもそうだ」
「何言ってるんですか?」
 振り向いて顔をしかめた。
「女に対して求めるものがいつも女らしさだけとは限らない。相手が女だって、例えばオレが腹の上で倒れたら担いで病院に運んで欲しいし、オレが崖から落ちそうになったら手をつかんで欲しい」
 甲馬はベッドから上半身を起こして壁に寄りかかり、どんぶりを載せた丸い盆を取り上げて膝の布団の上に置いた。粥が揺れてご飯粒が少しこぼれた。
「それは男だって同じことだ。昔のことを蒸し返させてもらう。レースのエプロンを着けろって言ったのはオレが悪かった。でも、帰ってきた人間にフロとメシのどっちがいいか聞くのは、その帰ってきた人間に対する愛だ。男だ女だって問題じゃない。誰だって病気の時はお粥を食わせて欲しいし、疲れてる時には風呂で体を洗って欲しい」
 どんぶりを持って、蓮華にすくった粥をハフハフ言いながら口に運んだ。
「男の部分と女の部分があるのは決して悪いことじゃない。力仕事が男らしさで、病人の世話が女らしさって訳じゃないんだけどな。オレだってお前に対して臨機応変に男にも女にもなってやる」
 そう言って粥をもう一口食べた。
「それじゃ嫌か。嫌なら今のうちに言え。早めに軌道修正する」
「かして。食べさせてあげる」
 寺本は甲馬の手からどんぶりと蓮華を取り上げた。
「オレの勝ち」
「あ、知能犯だ」
 寺本はベッドの枕元に腰を下ろしながら、怒った顔で甲馬の膝の上の盆にどんぶりを載せた。
「嘘は吐いてないぜ。あーん」
「やられちゃったな」
 寺本は悔しそうに蓮華に粥をすくい、長い息を吹き掛けた。こぼさないように左手を添えて甲馬の口に運んだ。
「安心しろよ。ブラジャーしろなんて言わないからさ。やっぱ自分で食うより、お前に食わせてもらう方が数段美味いよ」
 甲馬は寺本の下唇を右手で弄びながら、満足そうに口をもぐもぐさせた。
「同じお粥ですよ」
「そうだけどさ、病は気からって言うだろ?お粥も気からって感じか? 愛がこもってるぜ。塩加減も丁度いい」
「よく塩加減、塩加減っていいますけど、そんなの少なめにしておいて、足りなかったら後からかければいいだけの話じゃないですか」
「色気のないこと言うなよ。どんな抗生剤よりも、この愛のお粥、効くぜ」
 粥を食べ終えた甲馬は、布団を被って死んだように寝てしまった。
 寺本は洗面所からタオルを出してきて、氷水につけて絞り、甲馬の額に載せた。解熱剤は飲んだのだろうかと考えながら、甲馬の赤い顔をじっと見つめた。額の上のタオルは十分もすると熱くなってしまい、寺本はその都度絞り直して額に当てた。洗面所からもう二、三枚タオルを持ち出し、水を含ませ軽く絞って畳み、冷凍庫に入れた。
 その後何度かタオルを替え、固く絞った濡れタオルで汗ばんだ首や胸元を拭っても、甲馬は微動だにせず眠り続けていた。目を覚ます前にアイスノンでも買いに行こうかと思った時、玄関のベルが鳴った。
「あ、土井さん」
 玄関ドアを開けると、そこには大きな雪ダルマが立っていた。膨らんだ体にもこもこの白いダウンジャケットを着ている。
「…お前、いたのか」
 立ちすくむ土井に、どうして来たのかを問う前に、寺本は取り急ぎ言うべき事を言った。
「あの、今までずっと言いそびれてたんですけど…」
 土井の心臓がドキンと鳴る。まさか今更夏合宿の時の事を言われるのだろうか。
「今更なんですけど、夏合宿で…」
 帰ろうかと思った。
「怪我の手当て、ありがとうございました。あの後お医者さんに診てもらったら、応急処置が良かったって」
「……ああ、それはよかった」
 本当によかった。ホッとして力が抜けた。
「お借りした服も脱いだ後見当たらなくて、失くしちゃったのかと思ったら、土井さんが持って帰ったって、広瀬が」
「ああ、うん……」
 雨に濡れたまま歩く寺本を車の中から見つけた土井が拾い、寺本は車に常備してあった土井の服に着替えた。そしてそのまま車中でコトが起きてしまったという訳だ。
 きれいな顔というのは、雨に濡れると何故よりきれいに見えるのだろう。とは言え、いくら普段なら近付けないような美形と狭い車中で二人だけになっても、相手が女の子か、もしくは普通の男であれば、冷静な土井にあんな事が起こるはずはなかったのだ。
 しかし幸か不幸か、相手はこの男だった。あの晩の土井の態度は、「その気がある」と思われても仕方なかっただろう。
 そしてすべて終わった後、事の重大さに気付くまでに一分と掛からなかった。
「洗って返そうと思ったのに。ずっとお礼が言いたかったんですけど、土井さん、僕のこと避けてたから」
 避ける以外どういう手段があったというのだ。それまで通り、朝会ったら「おはよう」なんて明るく言える訳ないじゃないか。
「次は僕が奢るって約束したのに」
 約束。そう言えばメシを奢ってやった焼肉屋のレジでそんなような話をした。あれは約束だったのか。
 返す言葉が見つからない。土井は気を取り直して話題を本題に移した。
「コンマから電話もらってね。携帯持ってると、いつでもどこでも捕まっちゃうから不便だよ。薬、持って来たんだ」
 玄関で横に広がった大きな靴を脱ぎながら言った。
「ああ…」
 寺本は納得してうなずく。
「おれは富山の薬売りじゃないんだけどね。あいつ、病気の度におれに薬届けさせるんだ。たいて食い過ぎだけどね。風邪なんて十年ぶりくらいだ。コンマは? 起きてるの?」
 二人は廊下を歩いて奥の部屋へ来た。
「ぐっすり寝てます」
 土井は枕元に腰を下ろし、医者が患者の顔を伺うように甲馬の顔や首をじっと見た。
「顔色はそんなに悪くないね。熱のせいで赤いけど蒼くはないから大丈夫だ。変な斑点もないし、首も特に腫れてないと思う。触ってみないと解らないけど。はっきりしたことは言えないけど、多分ただの風邪だろうね」
 寺本はホッとして土井の隣に腰を下ろした。土井は慌てて寺本から離れる。
「…目が覚めたらうちの病院に連れて行くよ。一応何種類か薬持って来たけど、これほどぐっすり寝てるなら、起こしてまで飲ませる必要はないな」
 土井の視線が枕元のどんぶりに移った。どろどろのご飯粒が何粒か残っている。
「へえ、お粥なんか作ってあげたんだ。奥さんみたいだね」
 せっかく解決した問題を蒸し返され、寺本はムッとして応戦する。
「凝った料理じゃありません。卵しか入ってません」
「高熱で体力消耗してる時は胃も弱ってるから、あんまり栄養価の高いものは良くないんだよ。卵だけで正解だ。いい奥さんだね」
 寺本が喜ぶと思って土井はそう言ったのに、寺本はガラにもなく向きになった。
「お粥くらい、広瀬が一人暮らしでも作りに行ってあげますよ。特別な事じゃありません」
「駄目だよ、大きな声出しちゃ。起きちゃうよ」
 土井に制され、寺本はハッとして甲馬を見る。
 甲馬はピクリとも動かずに眠っている。寺本が額のタオルをそっと取り上げると、それはまた行火のように熱くなっていた。寺本は立ち上がってキッチンに行き、冷凍庫から濡れタオルを出して畳み直し、熱い額に当てた。生温くなったタオルは流し水ですすぎ、絞って畳んでまた冷凍庫に入れた。土井は黙ってそんな寺本を見ていた。
「ちょっと出ようか」
 寺本は少し驚いた顔で土井を見た後、眠る甲馬の顔を見て言った。
「…でも」
「目が覚めた時に僕がいないと寂しがる、かい?」
「………」
「この様子じゃ当分起きないよ。ここじゃ話せない。出よう」
 二人でマンションの部屋を出ると、寺本はポケットから合鍵を出して鍵を閉めた。土井はその鍵をじっと見つめた。

 マンションのロビーを出て、二人は隣の建物の一階の喫茶店に入った。
 土井は木目調の店内を見回した。二人の他に客は数組いる程度だ。今まで甲馬のマンションには何度も来ているが、この喫茶店に入るのは初めてだ。何となくレトロな雰囲気があり、音大生の客を意識しているのか、流れているのはクラシック音楽だ。音楽を流すのは構わないが、音量が少し大き過ぎるような気がする。話をするために来るのが喫茶店なのに、これほどでは会話がし難いのではないだろうか。
 二人が女性店員に指示され奥のテーブルに向かい合って座ると、間もなくその店員が水とメニューを持ってやって来た。二人は共にコーヒーを注文した。
「コンマと真剣に付き合ってるんだね」
「真剣じゃありません。遊びです」
「はは、あいつの言う通りだな」
「それに、別に付き合ってる訳じゃないです。セックスしてるだけです」
「…………」
 店内の音量が大き過ぎる事に、初めて感謝する。
「そのセリフ、コンマが今までよく言ってたよ」
「今回だって同じことです」
「おれ、悪いけど、男同士で本気だとか遊びだとか、そういうの、解んないんだよ」
 寺本は黙って目を逸らした。
「そう言う土井さんは、僕との事は遊びだったんでしょ? その後冷たいし」
 …墓穴を掘ってしまった。
 土井はうろたえ、グラスの水を一口飲んでから言った。
「…それを出すのは反則だよ。それがあるから、おれも今ひとつコンマに強く言えないんだ」
 店員がコーヒーを二つ運んできた。
 土井が砂糖とクリームの瓶を寺本の前に押しやると、寺本は結構ですという風に首を振って、その二つの瓶を土井の方に押し戻した。
「胃のためにはクリームだけでも入れた方がいいんだぞ」
 土井はそう言いながら自分のコーヒーに砂糖とクリームをたっぷりと入れて掻き混ぜた。
「土井さんと僕のこと、甲馬さんは知ってるんでしょ?」
「ああ、知ってるさ。吉村のこともな。困るか?」
「別に。全部遊びですから」
「遊びねえ…」
 それは解っているが、こう目の前であっさり言われてしまうと切ないものがある。
「コンマとは、遊びじゃなかったんだろ? 正直に言えよ」
 寺本は不機嫌そうに顔をしかめた。
「それとも、遊びでもいいから憧れの先輩と寝たかったってか? …ついでに、おれと吉村もからかってやれ、みたいな」
「そんなことないですよ」
 それから口元に笑みを浮かべ、上目遣いで悪魔がささやく。
「…実は、土井さん狙いだったって言ったら、土井さん、どうしますか?」
 土井は悲しくなってきた。
「お前がコンマに対する正直な気持ちを話してくれるなら、おれも正直に話すよ」
 無表情のまま寺本を見つめる土井に、怒られるか笑われるかのどちらかだと思った寺本は、拍子抜けしたように何度も瞬きをする。そして素っ気なくコーヒーを口に運びながら、椅子の背もたれに仰け反った。
「土井さんから先にお願いします」
 甘いコーヒーを一気に飲んでから、半分冷静、半分破れかぶれの土井が重い口を開く。
「おれはね、もしお前が本気でおれを好きだって言ってくれたら、おれも本気でお前を好きになるよ、多分」
 寺本の瞬きが更に多くなる。
「顔がいいとか、体がどうのとか、男とか女とかじゃないよ。なんか、いいよ、お前って」
 そこまで言ってしまってから、土井は自分の言っている事の馬鹿さ加減に気付き顔を赤くした。ここで寺本に愛の告白をしてどうする気だ。
 取り繕う言葉を探してしばらく沈黙したが、土井よりも更に戸惑っている寺本の表情を見て、いっそ一気にすべて話してしまおうという勇気が沸く。
「でもね、やっぱり、好きになったところで、それでどうなるんだろうって。結婚して子供が生まれてって訳にはいかないだろ? 幸いおれはお前に好かれてないから考える必要がない。でも、今現在のあいつの、お前への真剣な気持ちは理解できるんだ。同じ穴のムジナだからね」
「まさしく、同じ穴、ですね」
 寺本は納得したように何度もうなずいた。
「お前、よく言えるね、他人事みたいに」
「あ、すみません」
 寺本はとぼけた顔で肩をすくめ、それから悲しそうな顔になった。
 強い態度に出たと思ったら一歩引き、こちらも引くとまた強く出る。そして立場が悪くなるとこの泣き顔か。土井に媚を売っている訳ではないのだろう。土井になど好かれようとも思っていないはずだ。かと言って、もし無意識にやっているのなら、本当にこいつは始末が悪い。
 でも、このヤサ男を責めても仕方ないのだ。こいつが甲馬をたぶらかした訳ではない。土井だって甲馬の強引な性格は知っている。
「つまり、甲馬さんとはもう会うなってことですね」
 そう言われてしまうと、その通りだと答えるのも殺生なような気がする。
「実は…おれも解んないんだよね、何がいいのか、悪いのか」
 天井を見上げる。大きな土井から大きなため息が出た。
「僕の方はいつ別れたっていいんですよ。第一、別れるも何も、付き合ってる訳じゃないし」
 ほら、また強気な態度だ。
 荒れた中学の生活指導の先生というのはこんな気持ちなのだろうか。非行少年相手に押したり引いたり、何とか心を通わせようと努力し、そして空振りに終わる。
「それじゃコンマがあまりに可哀想だろうが」
 優しい顔の土井が少し恐い顔になる。
「結局別れて欲しいんですか? 別れて欲しくないんですか?」
 寺本が声を荒げた。荒げた直後、下を向いて静かに謝った。
「………すみません」
「ま、コンマも芸術家として生きて行くなら、そういうのもアリかなって思ったりもするんだけどね。普通のサラリーマンじゃなければ、そんなに生き辛いこともないのかなって。解んないんだよ、ホントに。でもおれ、コンマの親御さんとも長い付き合いだし、あいつ一人っ子だし」
 結局何を言おうとして寺本を外に連れ出したのか解らなくなった。
 生活指導の先生の次は、浮気亭主の本妻のような気分になった。夫の愛人を呼び出してタラタラと嫌味だけ言って、結局夫と別れてくれと言い出せない。だって、別れてくれと言ったところで、当の夫に別れるつもりなどないのだから。
「僕が土井さんとまた寝たら、別れてくれるかも知れませんよ」
 テーブルについた土井の右手の甲に、寺本は自分の手を載せた。
「…このまま、消えちゃいます?」
 聞こえないほどの声でささやいて、きれいな瞳で土井を覗き込んだ。
 土井の手の平に回した中指の先で、くすぐるように何度も円を描いている。その重なった細い指と太い指を見つめながら土井が言った。
「…おれ、正直に、お前を本気で好きになることもあり得るって白状しただろ?」
 寺本は慌ててその手を引っ込めた。
「………ごめんなさい」
「そう素直に謝っちゃうところも、コンマはたまんないんだろうね」
「でも甲馬さんは女の子の方が好きですよ」
「え、そうなの? まだ女の子とも会ってるの?」
「それは知りませんけど…」
「いや、多分今はお前一筋だよ」
 間違いなく一筋だ。あの節操なしが、みっともないほど捨て身でこの訳の解らない男に惚れているのだ。
「お前だって、あれだけ大事にされりゃ、情にほだされるっていうか、情が移るっていうか…」
「でも間もなく飽きますよ。僕、胸出てないし、余計な物が付いてるし」
 お前、そんなこと考えていたのか。
「土井さんが心配するまでもないですから。甲馬さんは、僕がちょっと物珍しいだけなんです。お尻の穴って硬くて気持ちいいってみんな言うし、中で出しても妊娠しないし、男相手なら後腐れないし」
 きれいな顔からぽんぽん飛び出す露骨な言葉に、土井の心臓がドキンと鳴る。
「土井さんだって、あの時、気持ちよかったって言ったじゃないですか」
 投げやりな態度で土井を見た。土井はとっさに目を逸らした。
「だから甲馬さんも、一通りやりたいことやったら、すぐに冷めて、また普通の穴にいれたくなりますよ」
 寺本はそう言って、その品の良い口元で冷めたコーヒーの最後の一口を飲んだ。白い首の小さな喉仏が動いた。そしてコーヒーカップを置くとふっと横を向き、長いまつ毛を伏せた。
 眉と瞼の間隔が狭く、両眼は奥に引っ込んでいる。真っ直ぐに伸びた鼻筋といい、尖った顎から耳までのラインといい、まるで高校の美術室にあった石膏の胸像のようだ。これだけ男前なら、言い寄ってくる女の子も多いだろうに。
 これだけ恵まれた容姿で、どうしてこいつは普通の恋愛ができないのだろう。しかも、男が好きで、男と付き合いながら、その男を信じられないでいる。どうしてこいつは、もっと楽に生きられないのだろう。
「お前は、それでいいの?」
 寺本の肩が一瞬震えたのが解った。
「いいも何も…」
 またこの悲しそうな顔だ。
「慣れてますから」
「…何だよ、それ…」
 その時、喫茶店の店員がグラスの水を注ぎ足しに来て、土井はその店員にコーヒーを二人分追加注文した。
「ひとつ聞いていいですか?」
「あ…ああ、何だ?」
「甲馬さん、学校の方は、ちゃんとやってますか?」
 一瞬寺本が何を聞いているのか、土井には解らなかった。しかしそう聞いた後、寺本の目が決まり悪そうに踊ったので、なるほどと合点がいった。
「ああ、そりゃもちろん。お前に夢中だけどね、その辺の切り替えはできる男だ。お前に溺れて本業を疎かにするってことは間違ってもないから安心してよ」
 寺本は、最近は二日に一度は甲馬のマンションに連れて行かれる。朝一番に駅で捕まり連れ去られ、授業を聴講し損ねることもあるくらいだ。寺本が居る時に甲馬が楽器を弾くことはまずない。
「むしろ逆かな。お前と会うようになってからさ、音楽にも情感が出てきたって言われてる。今まではテクニックだけで押してるって感じだったけど、何か最近しっとりしてきたって伊藤先生に言われたって」
 あれだけ頻繁に会っているのに、寺本はあまりじっくりと甲馬の演奏を聴くことがない。聴きたいとは思っているのだが、いつもその前に甲馬は力を使い果たしてしまうのだ。
「あんまり怒鳴らなくなったし、馬鹿馬鹿言わなくなったし、後輩も広瀬以外は蹴っ飛ばさなくなったし、ドアも手で開けるようになったし」
 それにあの恐い顔も、最近は時々少し優しそうに見えることがあるのに土井は気付いていた。
「そういうのを見てるとさ、お前に恋してるのも、まんざら悪くはないのかなって思っちゃうんだよ」
 新しいコーヒーが運ばれて来た。
「練習時間だってさ、減ってないってよ。あいつの体力は特異体質ものだからな」
 そう言ってから、土井はハッとして、今自分が甲馬のマンションに来ている理由を思い出した。
「あ、でも、今回ばかりはあいつもオーバーワークだったね。日帰りで慣れない地方なんか何度も行くからだよ」
 すると寺本は二杯目のコーヒーを飲もうとした手を止めた。
「地方?」
「あれ、聞いてない? あいつ、年が明けてから、都内だけじゃなくて地方のイベントにもよく呼ばれて弾いてるんだよ。今やっと一段落したところで、この鬼の霍乱だ」
 甲馬から、昼間はずっと留守だと聞かされていた日は何度もあるが、それが地方に行くためとは寺本は聞いていなかった。
 土井は二杯目のコーヒーにも砂糖とクリームをたっぷりと入れた。
「優勝したから年末にテレビにも出たし、この世界じゃ今ちょっとした『時の人』だろ? 見た目もいいから、いい人寄せになるんだ」
 一言くらい話してくれてもよかったのに。寺本は少し心外だった。コーヒーを持ったまま土井を見つめた。
「別に顔で弾く訳じゃないでしょ」
 そう言ってコーヒーを口に近付けた。しかし熱過ぎてまだ飲めないと踏んだのか、飲まずにそのままカップをソーサーに戻した。
「そうだけどさ、そういうのをきっかけにクラシックを聴くようになるってこともあるだろ? ほら、甲子園にアイドルが出ると、野球なんてルールも知らない女の子まで球場に足を運ぶ、みたいな。景気が下向きでどんどんチケットが売れなくなってるから、そうやってクラシック人口を増やしたいと思ってるマネージメントは多いんだよ」
「甲馬さん、アイドルなんですか?」
 あの強面と「アイドル」という言葉はどう考えても結び付かない。と、二人は同じ事を考え、同時に噴き出した。
「だって弾いてる姿見ただけじゃ性格までは解んないだろ?」
 寺本がまた噴き出す。
「かっこよくて才能があって、とかいうのに女の子たちは弱いからね」
 土井が笑ってそう言うと、寺本の笑顔がふっと曇った。
「あ、ごめん。軽率だったね」
「…え?」
「…もしかして妬いてるの? それとも心配?」
「まさか」
 寺本はぷいと横を向いた。土井は我ながら意地悪な事を言ってしまったと反省し、もう一度ごめんと謝った。
「違いますよ。演奏家を見た目で判断するっていうのが、あんまり好きじゃないんです」
 見た目では有利なはずの男が、随分と真っ当な事を言うものだ。
「でもお前だって、付き合ってる男が『かっこいい』って言われりゃ気分がいいだろ?」
 土井がそう言うと、寺本は「いい加減にしてくれ」といった体でため息を吐いた。
「でも、お前がいいんだとさ」
「…………」
「だから安心しろよ」
 寺本は口をきゅっと結んでカップを手に取り、冷めてやっと飲めるようになったコーヒーを一口飲んだ。
「主催者側がホテル用意してくれるっていうのにさ、あいつ、一目散に東京に戻って来るんだよ。次の日朝一にお前に会いたくてね。一昨日は大阪で、昨日は極寒の北海道。伊藤先生が、顔売っておいた方がいいって。プロになったらドサ周り生活なんだからって。きついよね、あの先生も。夕べ最終便の飛行機で帰って来て、そのままダウンだって」
 板チョコくらい買ってあげてもよかったかもしれない、と寺本は後悔した。日帰りで北海道。不可能ではないが楽ではないだろう。いくらプロはドサ周り生活とはいっても、プロはそれに慣れている。まだ学生の体ではすぐに順応できるはずがない。しかもマンションに戻れば、あの通り寺本相手に体を酷使する甲馬だ。
「これからお前と会うって時はさ、あいつ、トイレの時間も惜しんで弾いてるよ。ギリギリまで我慢して」
 それから土井は身を乗り出し、寺本に近付いて優しく笑った。
「内緒だよ。あいつ、実は長便男なんだ」
 下を向いていた寺本の長いまつ毛が上を向き、見開いた黒目で土井を見た。この喫茶店のテーブルは小さい。土井が両肘を突くと寺本の顔がとても近くなる。
「ほっとくと二時間くらい出てこないんだ。ケツ出したまま、雑誌読んだり煙草吸ったりね。うちのトイレで寝てることもある。脚がしびれたぁ、迎えに来てくれぇって、よく叫んでるよ。トイレはあいつの憩いの場なんだ」
 微笑んだ寺本の大きな瞳に、土井の顔が二つ映っている。その太った自分の顔を、土井は少しの間黙って見つめた。
「そろそろ行こう。もう起きてるかもしれない。どうせおれのこと、間男とか言うよ」
 土井は伝票をつかんでレジに向かった。
 何か釈然としないまま、土井は寺本と一緒に甲馬のマンションに戻った。
 結局おれは、二人の仲を応援するためにマンションを出たのか?
 寺本がストラディバリの合鍵を玄関ドアの鍵穴に差したその時、土井はまだ寺本の甲馬への正直な気持ちを聞いていないことにやっと気が付いた。
 右手がやけにしびれる。

 ドアを開け、早足に廊下を歩いて奥の部屋に入ると、赤い顔の男がふて腐れてベッドで半身を起こしていた。
「何でお前だけ来てるんだよ。お前の姉ちゃんか、せめてじいさん連れて来いよ。お前じゃ往診にならないじゃないか」
「今度は義兄を連れて来るよ。産気付いたら電話しろ」
 土井はクローゼットを開けて中から甲馬の濃いグレイのコートを取り出した。
 少し決まり悪そうに甲馬を見つめる寺本を睨み付け、それから甲馬は土井に向かって言った。
「この間男。オレのサトルちゃんと寝たな」
 土井はグレイのコートを甲馬に思い切り投げつけた。
「おぶってってやろうと思ったけどやめた。下の駐車場まで歩け。うちの病院行くよ」
「オレ、寺本の作った愛のお粥食べちゃったんだぜ。いいだろ」
「保険証は?」
「点滴してくれよ。ブドウ糖たっぷり入れてさ。頭クラクラするんだよ」
 土井は洋服ダンスの引き出しから甲馬の下着や普段着を数枚出して自分の鞄に入れた。
「立てよ。保険証くらい自分で出せよ」
 甲馬にそう言うと、今度は黙って突っ立っている寺本に向かって言った。
「そういうことだから。こいつ、今夜はうちの霊安室に泊めるよ。お前はもう帰って」
 寺本がうなずくと、甲馬が口を挟んだ。
「寺本も連れて行くよ。なあ、いいだろ? 心細いんだよ。一緒にいてくれよ」
 甲馬は寺本の手を取って引き寄せる。
「好きだったら相手のことも考えろ」
「は?」
「悪い風邪だったらどうするんだ。どうせ伝染すようなことするんだろ? 自分が一緒にいて欲しいからって、感情を押し付けるな」
 赤い顔が間抜け面になった。
「…ごめん、寺本。うっかりしてた」
 寺本の手を離して珍しく神妙に言った。
「それにお前らがいちゃついてるのを見たら、じいちゃんの心臓が止まる。そしたら困る。うち、内科医が足りないんだ。寺本」
「あ、はい」
「火の元確認して。行くよ」
 土井がくるりと大きな背を向けた。



 結局甲馬はただの疲労と風邪だった。土井の家で二晩寝ると熱も下がり、今まで以上に悪態も吐けるようになった。
 土井の車に乗せられて、甲馬は自宅マンションに戻って来た。土井に腕をつかんで貰いながら部屋に入ると、すぐに枕元の楽器ケースを開けた。「ごめんな」と言いながら弓の毛を張って、うつろな目で松脂をたっぷりと塗った。
 この部屋を出る時には乱れていたシーツと掛け布団が、きちんとベッドメーキングされている。シーツは少し洗剤の香りがした。枕元にあったどんぶりと蓮華もなかった。その事に土井はすぐ気付いたが、甲馬は気が付かなかった。
 甲馬は猫背でベッドに腰掛けたまま続けざまに何曲か弾くと、楽器をしまい布団に潜って、ピクリとも動かず眠ってしまった。
 土井は広瀬から寺本の電話番号を聞き、甲馬がマンションに戻った事を告げてやった。
 次の日の朝、寺本は甲馬のマンションへ行った。楽器に寺本にと、少し頑張り過ぎたのではないか、これからは寺本の方から頻繁に電話してあげるから、寺本を探して無理はしないようにと説得した。相変わらず甲馬は、寺本の時間割を持って彼を追い掛け回していたのだ。それから寺本は、遠い地方に行った時は必ず泊まってくるようにと念を押した。週に一度はマンションに泊まりに来る事を条件に、甲馬は寺本の説得に応じた。その交換条件に寺本は釈然としなかったが、甲馬の口調を真似て「ま、いいや」と言った。甲馬は病気前より口も腰も元気になった。
 寺本の母親は彼にガールフレンドができたのだろうと思っていた。それまで寺本の女性関係には過剰に反応していた母だったが、間もなく大学を卒業する二十二歳の息子に、「外泊は駄目」と口うるさく言う事はあまりなくなっていた。ただ夕食の席で一度だけ、「お兄ちゃんみたいに卒業間際に子供ができたなんていうのは嫌よ」と味噌汁をすすりながら言った。その騒ぎは当時高一だった寺本も憶えている。父が初めて兄に手を上げ、母が錯乱状態になり、兄はそのままその女性と結婚した。以来、寺本の学校の女の子から甘い声で電話が掛かってきても、母は絶対に取り次がず、いつも冷たい口調で切ってしまうようになった。
 その母の姑的な態度は、次男にとっては非常に都合の良いものであった。



 甲馬に頻繁に電話するようになった寺本だったが、その態度は相変わらずだった。
 甲馬の留守を知っていて、自分の授業の空き時間にマンションに来て、ピアノだけ弾いて帰ってしまうこともあった。確かに練習室代わりに使ってくれていいと言ったのは甲馬だ。しかしその度に、土井に貰ったワイルドターキーが明らかに減っている。面白いから甲馬は飲んだ所までボトルに線を引いて日付を書いておいた。すると次の日学校から戻ると、減った所まで新しい線が引いてあり、形の良い字でその日の日付が書いてあった。

つづく
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