射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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射手座の男 11

「コンマくんが来たよ」
 祖母がそう言って土井の部屋に甲馬を通した。
「伊藤先生、喜んでくれたぜ」
 パソコンをしていた土井が驚いて甲馬を見た。
「先生の方が、無理矢理にでも留学させようと思ってたって。決心してくれて嬉しいって。すぐにでも向こうの大学を当たってみるって」
「おれがあれだけ言ったのに」
「お前の説得でやめるようなオレじゃないよ」
「それもそうだけど」
「だろ?」
「留学はおれも賛成だよ。でも、あいつとは違う学校にしろ。せっかく行った留学先でお前が傷付くのは見たくない。悪い事言わないから、そうしろ。お前の手に負えるような奴じゃないんだよ」
「お前の手になら負えるのかよ」
 甲馬は口元に薄笑いを浮かべて、土井の間抜け面を見た。
「お前、寺本のこと好きだからそんなこと言ってんだろ。解ってんだぞ」
「何だと?」
「ばれてんだよ、ハジメちゃん。ヒトの男に惚れてんじゃねえよ」
 土井が怒った。滅多に怒らない土井が怒った。甲馬には解った。本気で怒った。そのあまりにもひたむきな怒りは、甲馬の口元から薄笑いを奪った。
「お前、オレと寺本を引き離そうとしてそんなこと言ってんだろ」
「コンマ、お前……」
 土井の声が震えている。甲馬の薄笑いは、ついに憤りに変わった。
「オレのこと、心配してるような振りしてよ、オレが他の大学行ったら、それからお前が寺本の大学に行こうと思ってんだろ、金に物言わせてよ。こいつ、善人ヅラしやがって」
「お前…腐ってるぞ」
 寺本はいつもこいつに甘えている。こいつなら寺本を幸せにできる。こいつは寺本の体を知っている。
「…何が日替わりメニューだよ。お前だって食ったんだろ? 美味かったんだろ? あいつのいい顔、見たんだろ? え?」
 土井は二つの大きな拳を握り締めた。
「オレと兄弟になれたくらいで威張るな。たった一晩寺本と寝たくらいで威張るな」
 甲馬も二つの大きな拳を握り締めた。
「あいつの顔でヌきやがって…。今でもあいつのこと考えて一人でヤッてんだろ? 正直に言えよ、この間男!」
 自分でも信じられないくらい大きな声が出た。
「ああ、ヤッてるよ!」
 土井がそれに負けないくらい大きな声で答えた。
「……え?」
「悪いかよ。あいつの事考えてマスかいちゃ悪いかよ。いいじゃないか、そのくらい、直接手を出してる訳じゃないんだから。そのくらいさせろよ」
「土井、お前…」
「とんでもない奴だって解ってるけどさ、今回もっととんでもない奴だって解ったけどさ、それでも、自分でもどうしようもないんだから仕方ないじゃないか、この右手に聞いてくれよ」
「お前…あいつと何回ヤッたんだよ」
「あれっきりだよ。あの晩、あいつとおれで一回ずつだよ。その一回ずつが忘れられなくて、すっかり童貞に戻っちゃったんだよ。あいつを思って、たった半年禁欲したくらいで偉そうにするな!」
 甲馬の左目が小さく痙攣した。
《時間が経てば忘れられるよ》
《辛いのは最初だけだよ》
 でかい体を震わせ泣いている。
 デブが泣くほどみっともない姿はない。
 何に対して泣いているのか。親友のオレの将来を憂いでなのか、寺本への募る恋心なのか、それとも、嘘を吐き通せなかった馬鹿な自分に対してか。
《お前にオレの気持ちなんか解るかよ》
《解んないよ。解りたくもないよ》
 こいつとは小学校以来の付き合いだ。太っているが底抜けに優しい奴だったから、選り好みしなければそれなりに周りに女の子は寄って来た。甲馬と違ってあまり女の話はしなかったが、真面目に付き合っていた女の子は何人か知っている。こいつの初めての女も知っている。そう言えば、あの夏以来浮いた話は聞かない。自分の事で忙しくて、土井の事など気にしたこともなかった。
 土井は我慢強い男だ。いつもニコニコ笑っている。三年か四年に一度爆発する程度だ。
 この前爆発したのは大学二年の冬、土井の病院の若い看護婦に甲馬が手を出した時だ。滅多に怒らない奴の欠点は、怒った時に始末が悪いという事だ。
 甲馬を人気のない校舎の裏に呼び出した。校舎の裏に呼び出すなんて、今時中学生の不良でもしない。
「親父の旧友の姪御さんのお友達の妹さんなんだ」と訳の解らない事を言った。「親父が責任を持って預かったお嬢さんだ」と声を荒げた。甲馬が笑って「オレがヤらなくたって、もう何発もヤられてる女だ」と言うと、「そういう問題じゃない」と大きな拳が飛んで来た。奥歯に激痛が走り、左の犬歯の歯茎から血が出た。鼻血も出た。痛いのはオレなのに、何故か土井が泣いた。
 悔しいからその足で土井の病院に行ってやった。父親のいる外科の外来に行き、土井の名前を出して父親に直接診て貰った。「どうしたのかな?」と聞かれたので、正直に「お宅の息子さんにやられました」と答えた。父親は平謝りで、治療費は請求されなかった。
 看護婦が歯茎に薬を塗ってくれた。その一週間前に同じ場所を舌の先でなめてくれた看護婦が、その日は綿棒で薬を塗ってくれた。頬に氷嚢を当てながら「何かあったの?」と小さくつぶやいた。
 その日の晩、土井と土井の両親が小石川の甲馬の家まで見舞金と菓子折りを持って謝りに来た。事が大袈裟になって甲馬は少々動揺したが、甲馬の両親は「どうせうちの馬鹿息子がまた何かやらかしたんでしょう」と何も受け取らなかった。「もう成人していることですし」と、二人ともお咎めナシだった。「お咎めナシが一番のお咎めでしょうから」と米屋の主人が笑った。針のムシロだった。

 甲馬はその辺にあったタオルを土井に投げつけた。
「…おれだって、お前みたいにかっこよくて才能があれば、あいつに対してだって強く出られたさ」
 タオルで顔を拭きながら、優しくて大金持ちのデブが言った。
「こんなブヨブヨでさ、汗っかきだし、走るの遅いし、音大生のくせに音痴だし。親父、要らないっていうのに、学会のついでにあんなピアノ買ってきちゃって、案の定、ピアノ挫折しちゃって、おれ…」
「お蔭で可愛いサトルちゃんが弾きに来てくれるじゃんか」
 土井の顔が赤くなったのが解った。
「よかったな、お前、デブでダサくて。土井家は安泰だ」
 こいつはよく早く結婚して子供が欲しいと言っている。
「馬鹿野郎」
「ガキが生まれたらさ、葉書くれよ。よくあるだろ? あの、どこが可愛いのかよく解んねえガキの写真が入ってるやつ。『はじめまちてぇ、よろちく』みたいな事が書いてあるやつ」
「馬鹿野郎」
 土井が少し笑った。
「オレにゃあ一生ガキは生まれないからよ、お前の子、可愛がってやるよ。自分の子みたいに、可愛がってやるよ」
 こいつの嫁になる女は幸せだ。こいつの子供も幸せだ。土井自身が幸せに育った。
 土井の部屋は快適だ。パソコンはあるし大きなテレビもある。ビデオデッキは最新型で、サラウンドスピーカーのステレオもある。もちろん冷蔵庫も電子レンジもあり、ミニキッチンまで付いている。キャビネットにはいろんな酒が置いてある。家がでかいからいちいち台所まで行くのが大変だろうからと親がすべて用意してくれたのだそうだ。これでテレビが見える位置にトイレがあれば完璧だ。
 悪徳経営でつぶれる病院は多いが、土井の父親は「赤ひげ」呼ばわりで至極評判がいい。あんなに金持ちなのに、女遊びひとつしないという寂しい男だ。毎日忙しく、時間の掛かる趣味を持てないため、好きな車を買うことに金と命を掛けている。たまの休みにはよく洗車している。
 良い雇い主には良い医者が集まり、若いインターンもみな親切だ。看護婦も優しいし、おまけにみんな美人だ。悪戯に経営規模を拡大するようなことも、下手に政治にかかわるようなこともしない。
 金持ちはみんな性格が悪くて嫌われ者だと思っていたが、土井のようなうちもあるのだ。しかし土井はデブでダサい。
「お前、本気なんだな」
「あいにく本気だ」
「あいつのこと、よろしくな」
「お前に言われるまでもないさ」
「お前たち、やっぱりお似合いだ」
「だろ?」
「割れ鍋に綴じ蓋だ」
「…どっちが割れ鍋だよ」
「両方だ」
「鍋と鍋じゃ合わねえよ。それにオレたち、鍋じゃなくてオカマだ」
「オカマじゃなくてホモだろ?」
「…どう違うんだよ」
「知らないよ」
「あの…ゲイってのは何なんだ?」
「知らないよ、そんなの」
「知らないなら余計な事言うな」
「幸せにしてやれよ」
「お前の分まで幸せにしてやるよ」
「お前がしっかりしてないと、あいつ、また遊び出すぞ」
「解ってるよ。ハラハラドキドキで毎日過ごすの、結構好きなんだ。苦にもならないし。安定しちゃうとかえって退屈になるんだ」
「そうなのか?」
「射手座だからな」
「ああ、なるほど」
「お前、星座とか血液型とか好きだったんだな。女みたいだ」
「こんなデブな女いないよ」
「そういうお前は何座なんだよ」
「乙女座だよ」
「キモチワリー」
 この男は物だけでなく愛情もたっぷり与えられて育った。だから優しいのだ。だから太っているのだ。
 壁には外国でもないのに大きな写真が沢山飾ってある。七五三から小学校の入学式、海外旅行の写真からオケの写真まで所狭しと飾ってある。母親が勝手に飾ったと言っていた。姉の結婚式の団体写真まである。一族郎党みな太っている。太っていると何故か幸せそうに見える。みな笑顔で、みな仲が良さそうだ。
 甲馬の親戚もみな仲が良い。何かと言うと集まって大騒ぎする。
「親御さんに何か言われたら………」
 壁の団体写真を見ながら土井がつぶやいた。
「おれが間に入ってやるから、いつでも電話しろ。コレクト・コールでいいから」
「土井…」
「間に入ったところで、何ができるか解んないけどな」
「親にエロ本見つかって焦ってた頃が懐かしいな」
『一生結婚はしない』
 そんなことを言ったら、家族は悲しむだろうか。越えなくてはならない壁は、まだ沢山ある。
「今日、寺本に会えないんだ。ここに泊まるぞ」
「好きにしろ」
「兄弟仲良く、同じベッドで寝ようぜ」
「やだよ」
「襲うなよ。近親相姦になる」
「しつこいよ」
 ノックの音がして、土井の祖母がビールを持って入ってきた。ビールなら土井の部屋の冷蔵庫にいくらでも入っているのに。話し声がするので誰か来ているのかと思ったそうだ。玄関からここまで甲馬を連れて来たことをすっかり忘れている。本当にいいばあさんだ。甲馬のばあさんと同じだ。
 デブと二人でビールを飲んだ。よく冷えていた。



 そして寺本も広瀬も卒業した。
 甲馬は土井と一緒に卒業式を覗きに行ってやった。学長のつまらない演説を聞きながら、広瀬がボロボロ泣いている。袴姿の両隣の女の子たちが、迷惑そうに顔を背けていた。
 式の後、広瀬は甲馬を見つけると「遊びに来ますからね」と言って抱き付いてきた。留学の事は無論広瀬にもまだ話していない。寺本も見ているのではやく離れて欲しいのに、なかなか離れてくれなかった。やっと離れたと思ったら、今度は土井に抱き付いて泣いた。
 スーツ姿の寺本はかっこよかった。しかし髪は相変わらず乱れていた。広瀬も首から下はかっこよかった。
 寺本の母親はピンクの和服がよく似合っていた。襟足が色っぽい。父親は寺本よりも背が高く、顔は寺本によく似ている。程よくグレーの交ざった髪にダークグレーのスーツがよく合っていて、甲馬は少しときめいてしまった。遠くから会釈した。母親が小首を傾げて笑顔で小さく手を振った。仕草は寺本によく似ていた。
 甲馬が「スーツの第二ボタンくれよ」と言うと、寺本は広瀬を横目に顔をしかめた。広瀬が「あ、それ、面白いですね」と言った。それから広瀬は寺本に抱き付いた。「アメリカに行っても親友だぞ」と言って泣いた。全く、いい加減にして欲しい。
 吉村も卒業した。彼は実家のある鹿児島に戻って母校である高校の音楽の教師になるそうだ。管楽器の奴らは吹奏楽部の盛んな高校では歓迎される。部活動の指導が楽しみだと言った。寺本と握手した。笑いながら、少し泣いていた。寺本が何かを言い掛けると、吉村はそれを遮るように「元気でな」と明るく言った。寺本は黙ってうなずいた。
 広瀬が吉村に抱き付いて泣いた。
 吉村は置き土産に、段ボール箱いっぱいの裏ビデオを残していった。実家へは持って帰れないと笑った。広瀬への就職祝いにした。



 甲馬は大学院に在籍しながら留学準備を進めていた。健康診断書と予防接種の証明書を英文で作成して貰い、それを取りに土井の病院に行った。
「向こうの先生、決まったぜ。ついに本決まりだ。これで留学ビザも下りる」
 自販機のコーヒーを二つ持って土井がテーブルに戻って来た。この病院の食堂のメシはとても美味い。時々利用させて貰っている。
「すごいな、こんなすぐに」
 土井はコーヒーを覗き込み、ブラックの方を甲馬の前に置いた。
「ありがとな。あの大学で、オレのこと是非みたいって言ってくれた先生がいてさ。伊藤先生の友達で、オレも公開レッスンでちょっとみてもらったことがあるんだ。すげえ先生だぜ。奨学金も出るんだ」
「お前、やっぱりさすがだな」
「英語のテストはこれから受けりゃいいとさ。トーなんとか……何だっけな」
「TOEFL(トーフル)だろ?」
「それだ、それ。そのトー…なんとか。一応受けろって、形だけ」
「お前、そんなのも憶えられないで大丈夫なのかよ」
 土井は砂糖・ミルク増量のコーヒーを冷ましながら呆れ顔になる。
「仕方ないじゃん、お勉強の大学じゃねえもん。九九だって7の段は未だに言えねえよ」
「お前、そのお勉強の大学じゃない大学だって、学部を卒業できたのは奇跡なんだぞ」
「広瀬のこと、言えないよな」
「そうだよ。英語だってドイツ語だっておれのノート持ってっちゃうし」
「だよな。おしゃべり広瀬にはまだ絶対言うなよ。寺本にもだ。あいつにはもう少し苦しんでもらう」
「何だ、それ」
「あいつ、オレがあいつの後追っ掛けて来ないもんで、調子狂ってるんだよ。かと言って、あんな乱暴な事言った手前、今更素直に一緒に行こうとも言えなくてさ、内心かなり落ち込んでるんだぜ」
 土井は開いた口がふさがらない。
「どうしてお前って、そう何でも自分に都合良く解釈できるの? 射手座だから?」
「なんつうか、あいつの心の葛藤が見えるようだよな」
「見えないよ、そんなの」
「ちょっと可哀想だけどな、お仕置きだ。苦しんだ挙句に喜ぶ顔も見たいしな。すげえ可愛い顔だろうな」
 甲馬は遠い目で何度もうなずく。
「ホント、お前、幸せな奴だな」
「ああ、幸せだ」
 甲馬は満足そうにブラックコーヒーを飲んだ。
「ヘイグ、ヒ、ト、って何だ?」
「は?」
「これだよ。6、エフ…」
 英文の健康診断書を指差しながら甲馬が聞いた。土井はそれを見て、信じられないといった顔になる。
「ハイト(height)だろ? 『身長』だよ。6フィートだよ」
「フィート? 何だ、そりゃ」
「お前、ホントやばいよ。今までどうやって楽譜読んでたの?」
「楽譜はローマ字みたいなもんだからな」
「それもそうだな」
 それから土井は急にかしこまって一度咳払いをした。真面目な話を始めるときの土井の癖だ。また何か説教を食らわすつもりか。アメリカに行ったらコーヒーにはクリームを入れろとか、カップラーメンの汁は飲むなとか。
「バイオリンのことだけど、親父のOKがもらえた」
 妙な事を言い出した。
「何だ?」
「医療法人の無償貸与ってのは、変か?」
「…何言ってんだ? お前」
「医療法人土井病院が買ってさ、お前に貸すってのは…」
 甲馬は頬が熱くなるのを感じた。突然そんなことを言い出すなんて反則だ。
「あんな話真に受けてんじゃねえよ、そういうつもりで言ったんじゃねえよ」
「お前がウンって言ってくれれば、親父が事務長に話すって」
「ジ、ジム、ジムチョー?」
 焦って舌がもつれる。
「先に事務長に聞いた方がいいかとも思ったんだけど、親父が一応お前に先に聞けって」
 土井の病院は、家族だけで経営すると思わぬ盲点があるだろうからと、事務長には外部の信頼できる者を雇っている。
「うちの事務長、そういうのには理解があるから心配しなくていい。だいたいの相場も調べた。だからお前の行ってる御茶ノ水の楽器屋の電話番号、教えて欲しいんだ。海外のオークションなんてことになったら、素人の手には負えないからな」
「馬鹿、お前、マジに、事務長なんかに言うんじゃねえぞ」
 何とか話を逸らそうと遠くを見ると、前に遊んだ看護婦が車椅子を押しながら食堂に入って来た。彼女も甲馬に気付き、飛び上がって高く上げた両手を大きく振り始めた。車椅子に座ったばあさんがびびっている。甲馬も椅子に仰け反ったまま、右手を高く上げた。土井が見て見ぬ振りをした。
 あんなことをしていたのが、遠い昔に感じられる。
「ここ、禁煙か?」
「当たり前だろ」
「だよな」
「なあ、電話番号…」
「そんな金があったら人工透析の機械でも買い足せ。バイオリンじゃ病気は治せねえよ」
「いや、音楽セラピーとかいってな、うちの学校も病院に慰問に行くだろ?」
 学校の宣伝活動なのかもしれないが、甲馬たちの音大は月に一度、近くの大学病院で患者向けの無料コンサートを開いている。生徒が交代で弾きに行くことになっており、甲馬もたまに行くことがある。音楽の解らない奴らの前で弾くのは嫌だという同級生もいるが、甲馬は目立つのが大好きだから、聴いてくれるという人がいればどこへでも弾きに行く。
「それで治った患者がいるのかよ」
「それは知らないけど、精神的には結構いいらしい」
「それでちょっとでも良くなるなら、いつでもここに弾きに来てやるよ。でも、その治療費で楽器を買うのはお門違いだ。オレが患者だったら怒るぞ」
「病院が嫌なら……ええと………駅前で借地にしてる土地をいくらか売れば…」
「解ったから、もういいよ」
「大丈夫なんだ。相場は調べたって言ったろ? そのくらい売ったって、土地はまだ十分残るんだ…」
「そりゃすげえな」
「最後まで聞けよ」
「だからもういいって」
「嫌味に聞こえたなら謝るよ。でもホントに、金持ちだって自慢してる訳じゃないんだ。だって仕方ないだろ、ホントに金持ちなんだから。貧乏ですって嘘吐く訳にいかないし」
「確かにな」
「おれの自慢はお前なんだよ。じいちゃんも親父もよく言ってるんだ、土地なんて持ってたって面白くも何ともないって。バイオリン買って、お前に弾いてもらった方がずっと意味があると思う」
「気持ちだけ」
「………」
「ありがたくもらっとくよ」
 土井はしばらく口を閉ざした後、頬杖をついて大きくため息を吐いた。
「友達甲斐のない奴だな」
「そうか? それじゃ、そのロレックスももらっとくか」
 甲馬は頬杖を吐いた土井の太い左手首を指差した。
「ロレックスじゃないよ。駅前の量販店で買った安物だ」
「ホント、お前んち、車と家以外はビンボっくせぇよな」
「悪かったな、貧乏臭くて」
「あ、あと、食事も豪勢か」
「今夜はしゃぶしゃぶだってさ。食っていくか?」
「えええぇ~、でもぉ~、悪いですよぉ~」
「お前がやると気持ち悪いんだよ。どうするんだよ。食っていくんだろ?」
「それじゃあぁ~、お言葉に甘えてぇ~」
「もういいよ」
 相変わらず寺本は土井の家にピアノを弾きに来た。車の話ばかりして、留学のことは何も話してくれなかった。一体いつ留学を決めたのか、どういうつもりで決めたのか、土井の方からさり気なく聞いてみようかと思った。しかしやめた。聞いたところでどうなるものでもなく、何を聞いても寺本は真面目には答えないだろう。
 真剣にピアノを弾く寺本の横顔を見ながら土井は思った。エライ男にかかわった。でも間もなく日本から居なくなってくれる。これでやっと土井にも平和な日々が訪れる。今度こそ忘れることができる。と思う。

つづく
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