射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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射手座の男 12

「飛行機、取れたのか?」
「はい、取れました」
「今に自分んちのパソコンで飛行機のチケットが買えるようになるらしいぞ。ちゃっちゃっちゃってな」
 甲馬はうつ伏せの寺本の尻をキーボードのようにして指で叩いた。この白くて丸い尻が好きだ。この弾力性が好きだ。
「まさか」
「ホントだよ。土井が言ってた。あいつ、すげぇパソコン持ってるんだよ。パソコンで手紙書くと、誰かから返事が来るんだ。画面にいきなり文字が現れてよ、訳解んねえんだよ。今にパソコンでテレビ電話みたいなことができるんだってさ」
「SF映画みたいですね」
 この背中も好きだ。白くてすべすべだ。程よく筋肉の付いた肩に手の平を這わせた。肩甲骨の形を確認するようにその背中をなで、丸い尻の山までゆっくりと線を描いた。
「飛行機、いつだ? ニッポン・エア?」
「はい。七月十日です。夏休み中、語学学校に行きます」
 九月の新学期から行くのではなかったのか。七月ではもう忙しい。甲馬も早く航空券を取らなくては。満席になってしまう。甲馬も語学学校に入ろう。英語など全く話せない。
「よし、成田まで車で送ってやる」
「いえ、両親が送ってくれます」
「そうか。でも、会いに行ってやる。親がいるんじゃ見送りのキスはできないけど」
「広瀬も成田に来てくれるって言ってます。甲馬さんがいたら、いくらあいつでも変に思いますよ」
 尻に頬を載せた。冷たい尻だ。確かこんなようなアイスがあった。餅の中にバニラアイスが入っていたと思う。こんな風に二つ並んで売られていたと思う。
「もういいよ。広瀬に話すよ。あいつ、気絶するかもしれないけどな」
「あいつには言わない方がいいと思いますけど。刺激が強過ぎます」
 さすがの寺本も、親友の広瀬には自分の正体は隠しておきたいらしい。
「七月に行くなら、オレ、早速八月に遊びに行くよ」
 これで寺本が嬉しそうな顔をしたら、甲馬は自分の留学の事を話してやろうと思った。
「それは無理です。まだ慣れなくて、多分対応できません」
 まだ強がっている。尻をなでてやった。
「そうか。それじゃ、正月には帰るのか?」
「さあ、そんな先の事、まだ解りません」
 尻に頬ずりする。昔無理矢理抱かされた親戚の赤ん坊の肌が、確かこんな感触だったと思う。この尻は粉ミルクの匂いまでしてきそうだ。
「春休みなら行ってもいいか?」
「…そうですね」
「別れる訳じゃないからな。太平洋を挟んだおしゃれな遠距離恋愛だ」
 うつ伏せのままの寺本が黙った。こんな時、甲馬には寺本の心の葛藤が見えるのだ。
『甲馬さん、僕と同じ大学に留学すればいいじゃないですか』
 そんな簡単な事が言い出せない。「遊び」と言ってしまった手前、引っ込みがつかなくなっているのだ。痛々しい。少し可哀想だと思ったが、甲馬にも意地というものがある。
「なあ、そんなに長い間会えなくなるんだからさ、すごいの、させろよ」
「今したじゃないですか」
 寺本は寝返りを打って起き上がり、嬉しそうに両腕を伸ばした。
「また、します?」
『す』で小首を傾げた。
 オレはただの電池の要らない道具か。勝手に動いてくれるバナナか。そんな切ない気持ちになることもあった。少しでも、オレを愛していてくれた訳ではないのか。そう虚しくなることもあった。
 そしてそれを乗り越えた。
 それでもいい、こいつのそばに居られるのなら。それでいい、こいつをこの腕に抱くことができるのなら。そう割り切るようになった。割り切れない気持ちを半分残して、半分割り切った。
 無言のまま寺本を見つめる甲馬に、寺本は腕を伸ばしたまま少し怪訝そうな顔になった。甲馬は右手を伸ばしてその下唇をつまんだ。
「そうじゃなくてさ、なんか変態っぽいのはないのかよ」
「縛ってみます?」
「そういうの、あんまり趣味じゃないな」
「変態っていったら、そのくらいしか思い付きません。あ、人参より太い物、挿します?」
「大根とかか? それも痛そうだな」
「そうですね。それじゃ車の後部座席でします?」
「それって変態の部類なのか?」
「普通、ですかね」
「………コスプレ」
「え?」
 甲馬はベッドから起き上がった。
「オレ、お前に嘘吐いてた」
 寺本が大きな目を丸くする。
「レースのエプロン着けろっていうのはよくないって言ったろ?」
 心配そうにうなずいた。
「ホントはな、着せてみたいんだ、お前に、レースのエプロン」
 するとホッとした顔で笑った。
「いいですよ」
「ホント? ホントにいいの? 買っちゃうぞ」
「ブラジャーは嫌ですけど」
「あ、うんうん、解った」
「エプロン着たまま、しましょうね」
 甲馬がこの上なく嬉しそうな顔をした。そして目に入った枕元の楽器ケースを見つめた。
「弾きながら、します?」
「あ、それも変態っぽいな。いいな」
「ですね」
「いや、あのな、今日、大学病院でコンサートがあってな」
「あ、今回は甲馬さんが弾いたんですね。今日のお客さんはラッキーでしたね」
「看護婦さんの制服も、似合うんじゃないかなあ、なんて」
 寺本が甲馬を睨む。
「ひ、弾きながら、するか?」
 ごまかすように言いながら、甲馬は手を伸ばして楽器ケースを持ち上げた。
「それじゃ後ろ向きます。前向きじゃ、僕の白いのが飛んじゃいますもんね。せっかくきれいな色なのに」
「お、きれいだと思うか?」
 甲馬は楽器ケースをベッドの上に置き、蓋を開けながら言った。
「オレの相棒だ。よく見てやってくれよ」
 寺本は口を押さえて楽器に顔を近付ける。
「蜂蜜色だ」
 母方の祖父が亡くなった時、祖父の遺した金でこの楽器を買った。甲馬をとても可愛がってくれた祖父が、かねてから祖母に話していた事だったそうだ。神田で商売をしていた口が悪くて明るい祖父だった。
 何も知らない母は「色が濃い方が高そう」と不満そうだったが、甲馬はこの透き通るような琥珀色のニスの音が気に入った。伊藤教授も満足してくれた。弓は教授に選んで貰った。
 蜂蜜色と言われたのは初めてだ。寺本らしい言い方だ。
「ストラッドですね。ガルネリか」
「馬鹿野郎。んなわけないだろ」
 三日月形の目が笑った。甲馬の心臓がとろけた。
「でもクレモナ生まれだ」
 アマティ家、ガルネリ家、そしてストラディバリ家などを生み出した北イタリアの小都市クレモナ。その技術が代々受け継がれた弦楽器製作の聖地である。そこで生まれた楽器達はポー川の流れに乗ってヨーロッパ中に、そして世界中に旅立って行った。
「オレには過ぎた品だ」
「まさか。名馬と名騎手です」
 甲馬の目も三日月形になった。
 買って貰った直後は嬉しくて嬉しくて、ケースごと抱いて寝たものである。しかしそれはやめるように言われた。甲馬は寝相が悪かったからだ。だから枕元に置いて寝ることにした。
 甲馬の最初の楽器は、子供用の十六分の一サイズだった。子供の頃は小柄な少年だった。そのおもちゃのような小さな楽器は、今でも実家の精米機の隣に飾ってある。一番安いベニヤ板に毛が生えた程度のアウトフィット・バイオリンだった。糸巻は黒檀ではなくプラスチックだった。
 甲馬の最初の先生は、いつも米を買いに来る近所の若くて美人な大学院生だった。その美人に「弾いてみる?」と言われてバイオリンを始めたそうだ。甲馬本人はよく憶えていない。しかしその美人の拍手が欲しくて必死に練習したのは憶えている。その美人からは、花のような果物のようないい匂いがした。米屋の一人息子の初恋だった。当時の幼稚園の担任も胸の大きないい女だったが、ジャージにスモックという井出達に、甲馬は今ひとつ燃えることができなかった。
 やがて楽器は十六分の一サイズから十分の一サイズになった。一番安いのから二番目の楽器を買った。糸巻は一応黒檀になった。使わなくなった小さな楽器は、精米機の隣の壁に掛けた。客から「可愛い」と言われる度に、父も母も目を細めて喜んだ。
 ある日その美人に連れられて、甲馬は伊藤教授の前で弾かされた。ビバルディのバイオリン協奏曲イ短調だった。一楽章と三楽章、両方弾かされてめんどくさかったのを憶えている。めんどくさいので思い切り速く弾いた。その美人は教授の門下生だった。
 そして甲馬の先生は、若い美人からそのしょぼくれたオヤジになった。両親も美人も喜んだが、甲馬本人はしばらく弾く気が失せた。そして音大の附属の小学校を受験することになったため受験勉強まで始まり、ひらがなの自分の名前さえも読めかった甲馬は頭が爆発しそうになった。 それからの八分の一、四分の一、二分の一、そして四分の三に至るまでの分数楽器はすべて、教授に選んで貰ったそれなりの中古を買った。次の分数楽器に進む都度、楽器屋が引き取ってくれた。ガキのコンクールはひと通り荒した。
 小五の時、大人のフルサイズになった。フルサイズはそう簡単に買い替える物ではないので誰でも真剣に選ぶ。伊藤教授は「自分の力量よりワンランク上の楽器を買いましょう」と言った。しかし甲馬が納得できるワンランク上の楽器は、米屋が小学生に与えられる値段ではなかった。さんざん悩んだ挙句、レンタルすることにした。
 教授は「腕がワンランク上がったら、更にワンランク上の楽器を借り直しましょう」と言ってくれた。「でも、宝くじが当たったら、いくらでも高い楽器を買っていいんですよ」と笑った。米屋の主人は本気で宝くじを買い始めた。
 教授が紹介してくれた御茶ノ水の楽器屋の主人は、時々遊びに行く小学生の甲馬に好きなだけ試奏させてくれた。華麗な音のフランス製、厳かな音のドイツ製、地中海の太陽のように明るく情熱的な音のイタリア製。どれもみな素晴らしく、甲馬はどの音も心から愛した。
 楽器屋の帰りには必ず神田の祖父母の家を訪ねた。祖父の膝の上で、その日に弾かせて貰った楽器の話をした。興奮して口が渇くほど一生懸命話した。祖父はうなずきながら、楽しそうに聞いてくれた。
 宝くじが当たる前に、その祖父が急死した。
「大好きだったじいさんに買ってもらったんだ」
 そうつぶやく甲馬を寺本は見つめた。
「オレが中一の時にコロッといっちまったんだ」
 寺本が驚いたように目を丸くした。
「餅詰まらせるじいさんじゃねえぞ。ありゃ一応生きてる。死んだのは母ちゃんの方のじいさんだ」
「僕の祖父も、僕が中一の時亡くなったんです」
 甲馬を見つめながら寺本が言った。
「そっか」
 楽器を見つめながら甲馬が言った。
「泣きました」
「…そっか」
 寺本は目を細めた。
「じいさんばあさんって、何かこう、特別な存在だよな」
 寺本がうなずく。
「何か弾いてやるよ。何がいい? そう言えば、お前一人のために弾いてやったことないな」
 弓の毛を張りながら甲馬が言った。
「それじゃあ……キラキラ星」
「なめとんのか」
 バイオリンを習うガキがたいてい一番初めに弾く曲だ。
「僕が弾ける唯一の曲です。ひどい音ですけど。広瀬のバイオリンで練習しました」
「また広瀬かよ」
「広瀬のバイオリンは色が濃いですよね。チョコレート色だな」
 蜂蜜の次はチョコレートか。参ったな。
「バイオリンの曲って、よく解りませんよ」
「張り合いないなぁ。この甲馬さまが弾いてやるって言ってんだぜ」
「チャルメラ」
「おい」
「今日は病院で何弾いたんですか?」
「年寄りが多かったからな、軽くビバルディとか弾いて、後は『ふるさと』とか『荒城の月』とか、辛気臭いヤツだ。バリバリのクラシックばっかやってもウケないんだよ、ああいう所じゃ」
「ウケる…って、漫才じゃないんですよ」
「でもどうせ弾くなら喜ばれる方がいいじゃん。観客を見て曲を選ぶ。オレってすげえな」
「それじゃ演歌とかどうですか。バイオリンならこぶしが利くし」
「ビブラートと呼べ、ビブラートと」
「同じですよ。甲馬さんなら演歌もいけると思います」
「バロックから文部唱歌まで、何でもこなすオールラウンド・プレーヤー甲馬さまだからな」
「それじゃ『荒城の月』」
「嫌いだよ、あの曲」
「どうして? オールラウンド・プレーヤー甲馬さまなんでしょ?」
「昔の光、今いずこって歌詞だろ? 何かオレの将来を暗示してるみたいでな」
「………」
「そんなことないですよって言えよ」
「あ、すみません、気が利かなくて」
「そうだよ」
「そんなことないですよ」
「遅いよ」
 寺本は肩をすくめる。
「ま、そうなったら米屋でも継ぐか」
「あ、それじゃ、クライスラーの…」
「お、クライスラーと来たね」
 うなずきながら弓の毛に松脂を塗る甲馬の手を寺本が指差す。
「それ、ひとつしかないんですか?」
「これか? いや、いくつかあるよ」
「ひとつ下さいよ」
「匂い嗅ぎながらアメリカで一人でヤるんだろ。あ、あ、甲馬さぁ~んって」
「やっぱり要りません」
「冗談だよ。これやるよ、ほら」
 甲馬は塗り終わった松脂をケースに入れて寺本に手渡した。
「ありがとうございます」
 寺本はケースの蓋を開けて匂いを嗅ぎ、「あれ?」という顔で首をひねる。
「あんまり匂わない」
「何かと擦り合わせなきゃ匂わねえよ。変なモンで擦るなよ。かぶれるぞ」
 寺本が甲馬を睨む。
「…クライスラーの何だよ」
「…何だっけな」
「何だっけな、じゃねえよ」
「広瀬がよく弾いてくれるんですけど」
「…………」
 こいつは何かにつけて広瀬広瀬だ。いくらプラトニックな関係だと解っていても腹が立つ。
「ええと、ミーシーミーシーで始まるやつ」
「ああ、『前奏曲とアレグロ』な。ありゃ広瀬にゃ弾けねえよ」
「え、弾いてますけど…」
 広瀬は明るく笑ってこいつを送り出してやるのだろうか。広瀬が、アメリカになんて行かないでくれと泣いて足元にすがりついたならば、こいつは留学を断念したのだろうか。
「弾いてると弾けてるは違うだろうが」
「広瀬、下手なんですか?」
「は?」
 突然の質問に甲馬は唖然とする。
「下手なんですか? あいつ」
「…………………」
 弓を持ったまま言葉を失う。寺本は黙って甲馬の答えを待っている。
 そう聞こえたか。広瀬にもそう聞こえていたのか。
 広瀬はコンマスのオレの真後ろで弾いていた男だ。オレが中学の時から見込んで、特別に鍛えてやった男だ。欲情はしないが、あいつはオレにとって大事な存在だ。
 オレが中二になった時、広瀬は突然オレの教室にやって来て、会いたかっただの、尊敬しているだの、弟分にしてくれだのとほざいた。うざったいから無視したが、それからもやたらとまとわり付いて来て、変な奴だが憎めないと思ったものだ。今では本当の弟のように思っている。
 それにあいつは英語も漢字も読めないが、楽譜は本当に良く読める。だから東都フィルに合格したんだ。二流楽団というのは褒め言葉だというのは本心だ。それに広瀬だったら、あそこで何年か修業を積めば、一流楽団でも空きさえあれば雇って貰えるだろう。強いてあいつの欠点を挙げるとすれば、プライドや競争心のないところか。解らない事や弾けない箇所があると、例え後輩でも平気で教えて貰ったりする。それを欠点と呼ぶのか、長所と呼ぶのかは解らないが。
「…んなこと、一言も言ってねえよ」
 口を尖らせて甲馬が言うと、寺本は悪戯小僧のように笑った。
「何だよ」
「甲馬さんて、あれだけヒトのこと馬鹿とか言うくせに、絶対、誰のことも、下手って言わないんですよね」
 寺本はもう一度意地悪く笑った。
「だから何だよ」
「何でもありません」
 下手な訳ないだろう。一生懸命弾いている奴らは、みんな上手いんだよ。例え小学生のガキでも、時々聴いていてドキッとすることがあるくらいだ。落ち込んでいた学部の頃、下手に聴こえたのは唯一自分の演奏だけだったような気がする。広瀬を鍛えながら、広瀬に鍛えられていた自分を思い出す。
 甲馬は口を尖らせたまま寺本を横目で睨んだ。それから、ゆりかごから赤ん坊を抱き上げるように両手で楽器を取り出した。
「あいつ、人前で弾く時より、うちで弾く時の方がずっと上手なんですよ。人前だとあがっちゃうんですって」
「人前で弾けてナンボの世界だろうが」
「甲馬さんはあがらないんですか?」
 楽器に肩当てを付けた。
「あんなのは慣れだ。緊張はするけどあがるってこたねえよ。ちょっと緊張してるくらいが丁度いいんだ。下と同じだ」
 弦を指ではじいて音を合わせた。
「ホントはお前が伴奏してくれるといいんだけどな」
 ハンカチを当て、顎当てに顎を載せながら言った。
「ま、いいや。耳の穴かっぽじーてよーく聴けよ」
 寺本はベッドの上で胡坐を掻いて、大きな枕を抱きかかえた。
 甲馬は比較的じっとして弾く。その動きは最小限と言えよう。その裸の水泳選手の演奏を、寺本は目と耳で聴いた。体があまり動かない分、肩や腕の筋肉の細かい動きが如実に解る。
 駒に近い弦の高音部分を小指で軽く押さえて弾く時、甲馬の大きな左手はピンと拡げられ、その長い五本の指は黒い指板を隠す。フラジオレットと呼ばれるその奏法で出す倍音の周波数は、とても耳障りが良いと寺本は思っている。そのかすれるような高音は、寺本の耳の奥まで響き渡る。指をピンと伸ばしながら、弦をしっかりと押さえてはいけない。弦が指板に触れてはいけない。その緊張感がいい。その時甲馬の両目の眉が少し上がる事に、寺本は夏合宿の時から気付いている。寺本もその高音を出してみたくて広瀬に教えて貰ったことがあったが、練習の甲斐なくついに出すことはできなかった。
 甲馬のフラジオはきれいだ。丸められた左手が一瞬開く時、寺本はある種の興奮を覚える。
 甲馬の左手が指板の上で踊る。途中、例え止まっても、決して休むことはない指。学園祭で軽快な曲を弾く甲馬の指。湾岸沿いのホテルで物悲しい曲を弾く甲馬の指。ベッドの上で寺本を弾く甲馬の指。細かく震えるビブラート。
 寺本は枕をギュッと抱き締める。
 甲馬の弓が弦から離れた。
 寺本が手を叩く。
「すごいです、甲馬さん」
 甲馬は寺本を見つめ、それから下を向いた。
「どんな曲でもよ、一曲通して弾いた後って、なんつうか、すげぇ気持ちいいんだよな。オケなんか特にな」
 寺本がうなずいた。
「いつも部分練習ばっかだもんな、上手く弾けなくて」
 もう一度大きくうなずいた。
「弾き終わると、空気がスッと抜けるっていうか、下がヌけるみたいな感覚」
「結局そっちに行くんですね、甲馬さんて」
「この気持ち良さがたまんなくて、オレ、弾いてんだな」
 E線を左手の小指ではじいた。
「米屋じゃヌけねえかな」
 寺本が呆れた顔で笑った。
「精米機の振動は、結構グッと来るんだけどな」
「そんなことしてるんですか?」
 甲馬は笑いながら、左手に持った楽器を眺める。
「こいつの名前、知ってるか?」
 寺本は首を振った。
「『コンマ二号』っていうんだ」
 寺本がプッと噴き出した。
「最初『甲馬ジュニア』って呼んでたんだけどな、土井になんかヤラしいからやめろって言われて」
 大きな枕を両手で抱き締め、声を出して笑った。
「バイオリンってのはな、女なんだ。愛してやればやるほど、いい音を出してくれる」
 そう言って甲馬はコンマ二号をいやらしい手でなでた。
「形も似てるだろ。穴からダンピット挿してやるとイヤ~ンって言うんだぜ」
 ダンピットというのは楽器を乾燥から防ぐために使う細いゴムのチューブだ。水を含ませ、f字孔から中に入れて楽器の湿気を保つ。
「でもな、ちょっとヤバイって思った時期があってな。こいつよりもお前の方を愛しちゃったんだよ。お前もいい音出すようになったろ?」
「僕はイヤ~ンなんて言いませんよ」
「言えよ」
「嫌です」
「いいじゃん、そのくらい言ってくれたって。ケチ」
「だってイヤじゃないですもん」
「あ、なるほどな」
 素直な奴だ。
「でな、こいつ、へそ曲げていい音出してくれなくなるんじゃないかって」
 寺本が少し心配そうな顔になる。
「ところがな、お前のこと考えながら弾くと、こいつ、前よりもいい音で鳴ってくれるんだよ」
 よかった、と寺本は思った。
「試しにな、お前とヤッてるとこ想像しながら伊藤先生の前で弾いてみたんだ」
 そんな事をしていいのだろうか、と寺本が首をひねる。
「そしたらさ、ブラボーだってさ。楽器をワンランク上げましょうって、冗談まで言われたぜ」
「それ、冗談じゃないですよ」
 甲馬は肩をすくめて、それから楽器をしげしげと眺めて言った。
「こいつ、オコゲだったんだな」
 それから楽器の竿をつかんで寺本の前に差し出した。
「ほれ、これがサトルちゃんだよ。いい男だろ。よく見ろよ」
 コンマ二号に寺本をよく見せてやった。コンマ二号が嬉しそうに笑ったように見えた。
「顔もいいけど、ケツがいいんだぜ。寺本、後ろ向けよ」
 寺本は膝をついて甲馬に背を向け、くいっと尻を突き出した。
「な? いいケツだろ。これからもいい音、鳴らしてくれよな。頼むぜ」
 そう言って甲馬はコンマ二号にキスをした。
 肩越しに振り向いた寺本は、マシュマロがとろけたような顔で笑ってやがる。
「お前もキスしてやれよ」
 御茶ノ水の楽器屋には今でもよく遊びに行っている。楽器の調整や弓の毛の張り替えをして貰っている間に試奏もさせてくれる。海外に買い付けに行って来た直後などは、店内はまるで宝の山だ。楽器屋の主人は「その気があるなら、真剣に探すよ」と言ってくれる。十年前に一千万近かった『コンマ二号』も、「買い替えるなら、それなりの値段で引き取る」そうだ。楽器の値段の高騰は依然続いている。甲馬はそんな風潮に流されるのは嫌いだ。しかし気にはなる。今この楽器を市場に出したならば、いったいどの位の値が付くのだろう。それを頭金にしたら、いったいどの位の楽器が買えるのだろう。
「寺本」
 ベッドに座り直した寺本が甲馬を見た。
「オレ、いつか、お前と弾きたいよ。お前が伴奏してくれたら、オレ、パガニーニみたいに弾けそうだよ」
 北イタリアの港町ジェノバに生まれたバイオリニスト、そして作曲家、ニコロ・パガニーニ。「バイオリンの鬼才」と呼ばれた彼の超人的な演奏テクニックは、「悪魔に魂を売った代償に手に入れたもの」などと、まことしやかに語られた。バイオリンの演奏技術と作曲法の歴史を変えた男。その悪魔的な才能で若くして名声を得た彼は、「英雄、色を好む」という言葉どおり、極めて奔放な人生を送った。
「パガニーニってとんでもねえ遊び人でさ、ナポレオンの妹ともヤッちゃったんだぜ。頭ン中、音楽とセックスしかなくてよ、どうしようもねぇエロい野郎だったんだ」
 寺本が甲馬を指差し横目で笑う。甲馬も負けじと寺本を指差した。
「だからパガニーニはエロく弾かなきゃいけないんだ。オレの曲の解釈なんてその程度だ。とても人前じゃ言えないだろ?」
 それからハッとして重大な事を思い出した。
「あれ? 弾きながらヤるって話はどうなったんだ?」
「やっぱり無理じゃないですか?」
 寺本が首をひねる。
「オレもそう思う」
「どっちかに集中しないと」
「じゃ、とりあえず、こっち。なんか、もっと弾きたくなっちゃった。次は何がいい?」
「あ、それじゃ、パガニーニのカンパネラ」
「よし、じゃ、エロく弾くぞ。気絶すんなよ」
 その晩は十時まで、甲馬とコンマ二号の演奏会が続いた。寺本の右手には、松脂のケースがしっかりと握り締められていた。

つづく
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