射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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射手座の男 1

 若葉萌える季節。
 片側一車線の割に交通量の多い大学前の通りで、甲馬はいつものように渋滞に巻き込まれイライラしていた。
 狭い通りに歩道はなく、道路の端に飛び出した無数の電柱のせいで歩行者が車道にあふれ出し車の通行を妨げている。電線を地中に埋めるという計画は頓挫(とんざ)しているのだろうか。せっかく車が流れ出しても、電柱の影からちらちらと現れる歩行者のせいですぐにはアクセルを踏めず、その隙に歩行者が通りをすたすたと渡り始めてしまう。あまりの苛立ちに力任せにクラクションを鳴り響かせると、横断中の歩行者は甲馬の顔を見て慌てて走り始める。そのほとんどが甲馬の音大の学生だ。
 確かに信号まで歩いて行って通りを渡るのは面倒だ。それに信号まで行ったところで、中途半端に停車した車が横断歩道の上や交差点の中で立ち往生していて容易には渡れない。甲馬も自分が歩行者側の時には、たいてい隙を見て通りを横切ることにしている。そんな時車にクラクションを鳴らされたりした日には、通りの真ん中に立ち止まって、最低五秒はドライバーを睨んでやることにしている。
 床に置いた左脚が貧乏揺すりを始めた。
 一昨日の晩から大学近くのマンションに帰っていない。マンションで女の子二人がかち合ってしまったのだ。玄関のドアを開けると、可愛い般若が二人、腕組みをして甲馬を出迎えてくれた。どちらも本命ではなかったが、どちらも本命は自分だと思っていたらしく、玄関で立ちすくむ甲馬に「どっちを取るの」と詰め寄ってきた。心配りのある甲馬はどちらも傷付けないような答えを探して黙っていたが、「どうするつもりなのよ」と凄まれ、つい正直に「三人でするつもりなのよ」と答えてしまった。
 右と左から平手が飛んで来て、甲馬は慌ててマンションを飛び出した。その晩から友達の土井の家に泊まっている。
 彼女らがまだあのマンションにいるとは思えないが、念のためしばらくさまよっていた方がよいだろう。
 甲馬はこの春音大の弦楽器科の学部を卒業し、今バイオリンのソリストを目指して大学院に在籍している。学部の三年が終わるまでは小石川の自宅から通学していたが、今は大学のそばにマンションを借りて一人暮らしをしている。引っ越してから通学時間は大幅に短縮され、音大生専用のマンションで遅い時間まで楽器の練習ができるので、実家に居るよりはるかに快適になった。女の子を連れ込むのにも好都合だった。入れ替わり立ち代わり違う女が出入りした。
 午後一時近くの学食は混雑を極めていた。甲馬はうんざりしながらも、仕方なく長い行列に並ぶ。その挙句にAランチの会計を済ませても、座る椅子を見つけるのに一苦労だ。やはりこの時間帯は避けるべきだった。
 見渡すと同じ弦楽器の一つ後輩の広瀬がいた。広瀬は春から四年生になった。見慣れない男の連中数人と昼食を取りながら大声で話している。
「よお、広瀬。ここ、いいか?」
 甲馬は右足で広瀬の隣の椅子を蹴飛ばし、上に置いてあった手書きの楽譜の束を落とした。「いいですよ」と言われる前にAランチを載せたトレイをテーブルの上に置き、その椅子に腰掛け、肩から提げた四角い黒い楽器ケースを下ろして足元に置いた。
「あ、コンマさん、どうぞ、どうぞ」
 落ちた楽譜を拾いながら、広瀬がカレーのついた口で言った。「コンマ」というのは甲馬のニックネームだ。音大附属の中学のオケでコンサート・マスターをしていた時に広瀬が付けたのだ。名前の「こうま」と「コンマス(コンサート・マスター)」を掛けている。甲馬は大学でも三年生まで大学オケの第一コンマスを務めていた。
「何だ、今日は。やけに御機嫌だな」
「九月の学園祭で、高校の頃やってたロックバンドを復活させることになったんですよ。もう大興奮です。これ、五年前の楽譜です」
 拾った楽譜を甲馬に見せながらそう言った後、広瀬は他の連中にも楽譜を見せて「なっ、なっ」と興奮口調でうなずいた。それを見た他の連中も嬉しそうにうなずいている。
「お前、バンドなんて組んでたの?」
「知りませんでした? ぼく、エレキ弾いてたんですよ、左利き用の。ポール・マッカートニーみたいでしょ? こいつ、ドラムやってたんですけど、こいつの提案で集まって」
「こいつ」と言われた男は甲馬に会釈した。男の少ない附属の音高ならば一つ下でも顔くらいは知っていそうなものだが、こいつは甲馬の記憶にはない。
「で、こいつがベースでボーカル、こいつはキーボード」
 今度「こいつ」と言われた二人も見覚えのない顔だ。二人はおどおどした顔で軽く頭を下げた。
今日のAランチはハンバーグ定食だ。そろそろ食べたいと思っていたところだ。いくら好物でも毎日同じメニューでは飽きてしまう。かと言って毎日別のメニューを自分で選ぶのも面倒だ。丁度良いサイクルで忘れ掛けていた味を楽しませてくれる、甲馬はそんな日替わりメニューが大好きだ。やはりランチも女も日替わりに限る。ハンバーグの上に広瀬の差し出したケチャップを大量に掛けた。
「後はもう一人のエレキの寺本を呼び出せば見事再結成です」
「え? 寺本?」
 寺本。その名前を聞いた甲馬は体が硬くなるのを感じた。
 寺本悟はピアノ科の四年になったはずだ。寺本と広瀬は同級生で、音中からの親しい友人である。
 元高校生バンド仲間たちは何を演奏するかで盛り上がっている。だいたいは決まっているようだが、追加の曲として新しい曲を入れるか、それとも懐メロを入れるかで意見が割れているらしい。
 黙って味噌汁を飲んでいた甲馬に、広瀬が身を乗り出して言った。
「あ、コンマさん、聞いて下さいよ。ぼく、バンドでバイオリン弾くんです」
「へえ、ロックで? ジプシーか?」
「『カモン・アイリーン』って曲があるでしょ? デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズですよ。あれやるんです」
「それ、オレが弾くよ」
 考えもせずに口から出た。広瀬が絶句する。甲馬はコップの水を一口飲んだ。
「お前が弾くよりオレが弾く方が話題になる。女の子たちも喜ぶ」
 他のメンバーたちも顔を見合わせて合点の行かない顔をしている。その顔を横目で見ながら、甲馬は付け合せのポテトサラダを口に頬張った。メンバーたちは広瀬に目配せして何か訴えている。板ばさみになった広瀬がうろたえているのが解る。しかし広瀬は甲馬に逆らえない。
「ま、確かにコンマさんが出るとなったら観客は相当増えるだろうけど……」
「当然だ。オレは弦のアイドルだ」
 冗談か本気か解らず周りは戸惑った。
「先生に怒られませんか? 九月じゃコンクールの予選があるでしょ」
「そんなの知るか。じゃ決まりな。今オレ、土井んちにいるから、夜にでも電話くれ」
 楽器ケースを肩に掛け、トレイを持って立ち上がった。
 顔も態度も冷静を装ったが、頭の中で何かが大きく脈を打っていた。心臓の鼓動も激しくなり、このままこの場にいたらその音がこの連中に聞こえてしまいそうだったのだ。
『それ、オレが弾くよ』
 自分でもどうしてあんなことを言ってしまったのか解らない。しかし言ってしまった事は今更引っ込めることはできない。歩きながら口元が緩むのを感じた。立ち上がった直後に「ちょっと広瀬」というささやき声を背中で聞いたが、甲馬は振り向くことなく足早に広瀬たちから遠ざかった。
 その晩も大きな土井の大きな家に泊まった。



 次の日の放課後、復活バンドはまた学食に集まった。
「どうして部外者の甲馬さんが出てくる訳さ」
「そうだよ。お前が目立たなくなるぞ。せっかく張り切ってたのに、いいのかよ、広瀬」
「自分が悪いんだよ。余計な事言うから、甲馬さんがしゃしゃり出てくるんだよ」
 さっきから広瀬は他のメンバーたちにこてんぱんに責められている。
「でもさ、せっかくコンマさんが弾いてくれるって言うんだから、ありがたく弾いてもらおうよ。いい宣伝になるよ」
「まあ、広瀬がいいならいいけど」
「それにあの人、断ったら殴られそうだし」
「体育会系音大生ってカンジ?」
「遠くから見て恐い顔だなとは思ってたけど、近くで見ると更に恐い顔してるよな」
 声を潜めるという気遣いもすっかり忘れ、バンドのメンバー達は口々に言いたい事を言っている。
「あのバイオリンケース、絶対ライフル銃が入ってるよ」
「あの顔で、あの態度で、あのケースだろ? 職務質問とかされないのかな」
「皇居の近くでされたって噂聞いたよ」
「マジかよ」
「あ、それ聞いた。北の丸公園だろ?」
 その噂の出所の広瀬の心臓が大きく鳴った。軽い気持ちで数人に話した事がこんな所にまで広まっている事実に驚きながら、広瀬は何とか話を逸らそうと取り繕う。
「あ…でも…かっこいいでしょ? コンマさん。すごくモテるんだよ」
 広瀬はさっきからいつ甲馬が現れるか気が気ではない。こんな会話を聞かれたら広瀬の身に何が起こるか、考えただけでも恐ろしい。
「そうなんだよな。タラシなんだろ?」
「あ、うん、そうそう、女ったらしだって聞いた。あの恐い顔でねえ」
「見た目ほど恐くないんだよ」
 やや厳しいフォローをし、広瀬は隣に座る親友に救いの手を求める。
「寺本も知り合いなんだ、コンマさんと。な? 一昨年のオケの夏合宿に一緒に行ったんだよ。な? 寺本」
「うん」
「いい人だよね」
「うん」
「…ちょっと強引だけどね」
 久し振りのバンドということで、寺本悟も大喜びでやって来た。すらっと背の高い端整な顔をした物静かな男だ。仲間との会話の間も、彼が自分から口を挟むことはあまりない。
 自称甲馬の一の子分の広瀬が声を弾ませた。
「ぼく、コンマさんが大好きなんだ」
 悪びれない広瀬の発言に、ドラムとキーボードの奴らが身震いをする。
「聞いたかよ、おい」
「信じられないよな、広瀬って。気持ちわりぃ」
 すると広瀬が急に慌てて人差し指を口に当てた。
「しっ、来たよ、コンマさん」
「え? 来た…って、呼んだのかよ、広瀬」
「だってバンドの新メンバーじゃん」
「こいつ、やっぱり頭おかしい」
 肩から楽器ケースを提げて甲馬が学食に入って来た。
「あ、怒ってる」
「怒ってないよ。あれが普段の顔なんだよ」
「隠れろ」
「ちょっと、隠れてどうすんの」
「寺本、お前もだよ」
「……え?」
「下向くんだよ、はやく」
 甲馬は入り口近辺で一度立ち止まり、目を細めて学食内をぐるっと見渡している。別に視力が弱い訳ではないのだが、遠くを見る時の甲馬の癖だ。それ故、目付きが悪いとよく言われるのである。
 空いた放課後の学食で、窓際のテーブルの小競り合いを見つけるのは容易いことであった。そのテーブルに向かって、甲馬はやおら近付いて行った。
 寺本と目が合う。テーブルの少し手前で立ち止まった。
「よお、久し振り」
 寺本を真っ直ぐに見ながら明るい声で叫ぶと、寺本は更に明るい声で答えた。
「ご無沙汰してます。こんにちは」
 そしてペコンと頭を下げる。甲馬はテーブルを挟んで寺本の向かい側にゆっくりと腰掛け、楽器ケースを足元に置きながらその色白の顔を見つめた。
 二年前の夏、寺本は甲馬が当時コンマスをしていた大学オケの鎌倉合宿に参加した。今甲馬が居候させて貰っている土井や、後輩の広瀬も一緒だった。ピアノ科である寺本はオケ団員ではなかったが、その夏はピアノ・パートが必要だったため、甲馬は広瀬に頼んで寺本を連れて来て貰ったのだ。寺本もリゾート気分で喜んで参加を承諾してくれた。
 二年前は短かった寺本の髪が今は少し伸びている。長くするつもりなのか、単に切りに行っていないだけなのか。
 こいつと口を利いたのはほぼ二年振りだ。この二年間、彼のことは時々見掛けてはいたが、何となく声を掛けることははばかられた。広瀬に聞けば寺本の様子は解ったのだろうが、甲馬はあえて聞くことはしなかった。
「こえぇ。寺本のこと、睨んでるよ」
「睨んでないよ。あれが普通の顔なんだってば」
 甲馬の目の前に寺本の顔がある。椅子の背もたれに仰け反ってその顔を眺めた。
 たった二年しか経っていないが大人そうになった。髪が長いせいもあるだろう。少し逞しくなったような気もするが、まだ口元にあどけなさが残っている。富士山のような唇だ。瞬きをすると長いまつ毛がバサバサと動く。髭剃りの跡は残っておらず、相変わらず白くてきめ細かい肌をしている。二年前と変わらないきれいな顔だ。
 あまり見つめても変なので、甲馬は視線をベースの奴に移した。そいつはビクッとして目を逸す。すると寺本が甲馬に話し掛けてきた。
「甲馬さん、オケ、やめちゃったんですってね。広瀬から聞きました」
「ああ。弦の伊藤先生って知ってるか?」
「もちろんですよ」
 甲馬の指導教官である伊藤教授は世界的にも有名な演奏家かつ指導者で、この音大の看板教授だ。
「あの先生がな、ソリスト目指すならもういい加減オケはやめろって」
「ああ、なるほど」
「やめたくなかったんだけどな」
「そうなんですか?」
「楽しかったからな、オケ」
「そうですね。楽しかったですね」
「楽しかった」と寺本が言った。二年前の夏合宿を思い出し、甲馬の胸が熱くなる。
 暑い夏だった。鎌倉の夜も熱かった。二人並んで寝転んだ由比ヶ浜の大きな岩の陰。夜中を過ぎても昼間温められた浜辺の砂は冷え切らない。生暖かな風が二人の頬をかすめた。
《甲馬さん、キス、上手ですね》
 記録的な猛暑だった。
《すべて『真夏の夜の夢』ってことで》
『ピアノ科のオカマ』と呼ばれていた男。しかし誰もがそう呼んでいた訳ではない。一部の噂好きな奴らだけだ。甲馬もその話題が出ると一緒になって騒いではいたが、信じていた訳ではない。大人しくて女のように整った顔をした奴だから、誰かが面白半分にそんな噂を立てたのだろうと笑い飛ばしていた。実際いつも一緒にいる広瀬だって「そんなのただの噂ですよ」と言っていたし。
 月明かりの下の寺本は妖艶であった。真っ当な思考回路をショートさせてしまうほどに。
《僕を抱いて》
 そして甲馬は寺本を抱いた。生まれて初めて男を抱いた。
《甲馬さん、遊び人でしょ》
 寺本はまだ甲馬を体内に含んだまま言った。
《これっきりですからね》
 波の音しか聞こえなかった。
《遊びですからね》

 それからバンドのメンバーたちは昔話に花が咲いた。甲馬は話に着いていけなかったが、立ち去ることもなく黙って座っていた。そしてその日も追加の曲が決まらないまま解散となった。
「寺本」
 一人で廊下を歩いて帰ろうとする寺本を甲馬が呼び止めると、彼は驚いたように振り向いた。伸びた髪が揺れた。二人の身長はほとんど同じだ。甲馬の方が一、二センチ大きいくらいだろうか。振り向いた時、もう少しで髪が甲馬の鼻に当たるところだった。そのくらい自分が寺本に近付いていたことに改めて驚く。
「車で家まで送るよ」
「いいですよ。電車で帰りますから」
 寺本は首を振ってまた廊下を歩き出した。
「バンドの事さ、いろいろ教えてくれよ。オレ、新人だからさ」
 半ば強引に寺本を誘った。こんな強引なことができるのに、この二年間声も掛けられなかったのが嘘のようだ。というよりも、この二年間、話し掛けても無視されるのではないかと恐かったのだ。ひと夏の「遊び」で付き合った奴に、その後もしつこく付きまとわれるうざったさを、甲馬は誰よりもよく知っている。しかし今、こうして正々堂々と話し掛ける口実ができた。そして寺本はそう不快でもなさそうだ。
 甲馬が大学の駐車場に停めた白いソアラの助手席のドアを開け「どうぞ」と言うと、寺本は車を前から後ろまで一度見渡してから中に乗り込んだ。甲馬はドアを閉めて運転席に回った。
「合宿の時はモスグリーンのシルビアでしたよね」
「お、よく憶えてるな。つい最近乗り換えたんだ。さすがに最新型って訳にはいかなくてな、型落ちでかなり安くなってた。でもかっこいいだろ」
「はい。僕はこの型のソアラの方が好きです。新しいのは丸っこくて」
 自分の車を褒められて嬉しくない男はいない。思わず顔がほころぶ。
「お前、解ってるじゃん。お前は何乗ってんの?」
「僕は自分の車なんて持ってませんよ。うちの父は普通のサラリーマンですから、そんなお金ありません。僕は父のクレスタを時々運転するくらいです」
「うちだって米屋だ。米はあるけど金なんかねえよ」
「お米屋さんじゃお金持ちじゃないですか」
 確かにそんな時代があったかもしれない。しかし今ではどこのスーパーでも米なんて当たり前のように売っている。父親が酔っ払う度に「米屋や燃料屋がいい時代はもう終わった」とぼやくのは、いい加減耳が痛い。
「そんなこたねえよ」
 車のキーを回してエンジンを掛ける。
「うちの学校、ものすごいお金持ちがいますからね」
「土井とかな」
「土井さん?」
 アクセルを踏んで大学の駐車場の出口に向かう。
「すっげぇでかい総合病院だ。土井も横にでかいし、自宅もでかい。バブルがはじけたって病人が減る訳ないもんな。不景気知らずさ。それにあの辺りの地主でよ、駅前の土地一帯、土井んちのもんだ」
 土井は甲馬と同級生で去年まで大学オケでチューバを吹いていた。チューバを吹くだけにかなり体格の良い穏やかな男だ。今は管楽器科の大学院に在籍している。のんびり大学に通いながら、空いた時間で医療事務の通信講座を受けているという。
「それにあいつ、携帯電話持ってるんだぜ」
「ああ、そうでしたね」
「……なんだ、知ってんのかよ」
 ちょっと不機嫌になる。
 携帯電話は契約料も月々の支払い額も高く、庶民にはとても手が出ない。甲馬の周りで持っているのは土井くらいだ。
「…土井さん、お元気ですか?」
 二年前の夏合宿中、寺本が雨の中自転車ごと転んだ時、土井は優しくかつ的確に傷の手当てをしてくれた。着替えを貸してくれ、寺本を憐れと思い夕食までご馳走してくれた。寺本はその気持ちが嬉しく、彼に好意を持ったのだ。あの後腕と脚の筋が少し痛み整形外科に行った時、医師から「応急処置が良かったお蔭でこの程度で済んだ」と言われた。
 土井が望んでいるように見えたから、寺本は土井と関係を持った。寺本がそうしたいと願い、土井もそう見えたからだ。しかし次の日、目を逸らしながら寺本の腕と脚の包帯を取り替える土井の様子を見たら、悪い事をしたのかもしれないと後悔した。その後も土井が寺本と視線を合わせる事はなかった。
 新学期が始まり、怪我の経過の報告と併せて改めて礼を言いたかったのに、土井は結局寺本を避けることしかしなかった。
 寺本は、包帯を巻いてくれた土井の姿を思い起こした。
《土井さんち、お金持ちなんだ》
《そんなことないさ。自転車操業だよ》
 優しい口調だった。
《おれ、両親がトシ食ってからの子でさ、過保護に育ったんだよね》
 過保護という言葉は悪い印象を与えがちだが、愛情を持って過保護に育った奴らは得てして優しいと寺本は思う。
《おれ、デブだから》
《デブじゃないですよ。こういうの、逞しいって言うんです》
「何だよ。金持ちがいいか」
 寺本はハッとして隣を見た。
「オレより金持ちの土井の方がいいか」
「ビトン買ってもらって、お腹が空いたら呼び出して、ですか?」
 首を傾げて寺本が問う。
「………」
「僕は男です」
「そうだな。複数の男に同じビトン買ってもらって、ひとつ残して後は質入れしちゃうギャルもいるそうだからな。アッシーとかメッシーとか、女は恐いよな」
「オカマも恐いですよ」
 寺本が笑った。
「ああ、恐い。恐い恐い」
 甲馬も笑った。
 しばらく運転して赤信号で止まった時、ドアの窓枠に右肘をついて、つぶやくように甲馬が言った。
「あれから……元気だったか?」
 言ってしまってからはたと後悔する。「あれ」とは何の事か。しかし「オカマは恐い」と先に昔の話題を持ち出したのは寺本の方だ。
「元気ですよ。僕はいつも元気です」
「……そっか」
 うまくはぐらかされてしまった。「あれ」の話に持って行きたかったのに。
 甲馬の左脚が貧乏揺すりを始めた。
「煙草、吸ってもいいんですよ」
「…いや、いいよ」
 青信号になると、甲馬は大きく息を吸い「ウリャー」と言って、直列六気筒のエンジンを吹かした。
 幸い大きな渋滞にも引っ掛からず、美味いと評判の国道沿いのステーキ屋に入った。寺本はレジの横の公衆電話から親に電話をして「夕食は食べて帰る」と言った。
 食事中も寺本は甲馬に「普通に」接してくれた。二年前に何事もなかったようだ。それが救われたような気もしたが、同時に少し寂しいような気もした。
 学食でバンド仲間といた時はほとんど話さなかった寺本だが、甲馬と二人だけになると次から次へと言葉が出て、食事中話題が尽きることはなかった。
 自分は持っていないが車が好きで、車の雑誌は毎月買っている、東京モーターショーには必ず行くと言った。甲馬もモーターショーにはコンパニオンを見に必ず行くと言ったら笑った。将来買うなら何の車がいいか、嬉しそうに語った。スポーツカーもいいが、結局保守的な車になってしまいそうだと笑った。ドイツ車やイタリア車にも興味があるが、やはり国産車が一番好きだそうだ。歴代のソアラもマイナーチェンジの事まで把握していた。うちの学校の駐車場にはいろんな車があって面白いと言った。どの車が誰の物か、そんなことまでよく知っていた。表情がころころ変わり、太い眉がせわしく動いた。女のようにきれいな顔をしているのになよなよとして見えないのは、この太い眉のせいかと思われる。笑うと並びの良い白い前歯がよく見える。笑顔が可愛らしかった。
 寺本との食事は楽しかった。楽しくて、つい遅くなってしまった。「奢る」という甲馬の申し出をかたくなに断り、仕方なく割り勘にした。メッシーがどうのこうのと言ってしまったせいだろうか。二年前、土井には奢らせたクセに。
 ステーキ屋を出て寺本の家に向かう途中大渋滞に巻き込まれ、駅の看板の明かりが見えた時、全く進まない車から仕方なく寺本を降ろした。彼がそうしてくれと言ったのだ。その駅から電車に乗って帰ると言った。家まで送ってやりたかったのに。寺本の家の前で、次に会う約束を取り付けたかったのに。
 慌しく車から降りた寺本の背中を目で追いながら、甲馬は胸ポケットのマイルドセブンに右手を伸ばした。土井の家に戻ったのはそれから二時間後だった。

つづく
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テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

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