射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 1-2

 それから三年半経った2003年夏、滝田は赤いマスタングに乗っていた。 BMWのオートバイを廃車にして、仕方なく急いで買った中古車だ。燃費や性能の良さを考えるとやはり日本車かドイツ車が欲しかったが、例え中古でもそういった人気車は値段が高くてとても手が出なかったからだ。貯金を切り崩すつもりになれば、まあ、買えないこともなかったが、任期である五年で処分してしまう可能性の高い車に、余計な金を掛けるのは馬鹿らしいように思えた。
 滝田は東京都内に本校のある塾の講師である。転勤を命じられ、東京からニューヨーク校にやって来た。ニューヨーク近郊に住む日本人小中学生を対象にした進学塾だ。マンハッタンから高速道路を飛ばして三十分程の閑静な住宅街にあり、この辺りにはマンハッタンに通う日本企業の駐在員家庭が多く住んでいる。日本人が多いということは、つまりはある程度の高級住宅街の部類に入り、治安は比較的良い。滝田のアパートも塾から車で五分ほどの距離で、裏道であるサイクリング・ロードを通れば自転車や徒歩で通うことも可能だ。
 ニューヨークとはいっても、ここには摩天楼もイエロー・キャブもない。車の通り沿いには大木が茂り、ちょっとした買い物に行くにも森を抜けて行くのが当たり前だ。滝田の実家のある東京の多摩地区の方が余程都会であるといっても過言ではない。高層のアパートやオフィスビルは、塾の周りには数えるほどしかない。平屋か、せいぜい二階か三階建ての建物が広々とした駐車場と森に囲まれているというのが一般的な景色だ。塾の入っている小さなモールも二階建てで、塾は一階の大きなスーパー・マーケットの隣にある。日々の食料品の買い物は、夜十一時まで開いているそのスーパーで済ませている。
 そんな都市郊外ののどかな風景の中、自宅アパートと塾の往復で一日が終わる。そんな生活を滝田はもう四年近くも続けていた。
 ふと仕事の手を休めた時に、思い出すのは二つ年下の亮子。大学のサークルの後輩で、滝田の恋人であった女性だ。彼女は卒業後、都立高校で音楽を教えていた。亮子とこの地に住んで、子供を作って、温かな家庭を作るのが夢だった。
 ニューヨークへ経つ前の晩、亮子は「遠距離恋愛ね」と言ってキスしてくれた。しかしその後亮子が携帯電話に出たことはなく、メールを出しても返事は来なかった。
「振られたのだ」と認識したのは一年近く経ってからだ。同僚に「もう一年も会っていない恋人が日本にいる」と言った時、「お前、それもう終わってるよ」と言われて、初めてその現実に気が付いたのだ。まったく、我ながらその鈍感さには呆れてしまう。
 渡米して間もなく四年が経つ。あと一年で任期満了だ。延長の希望を出さなければ帰国の辞令が出る。日頃から校長に「絶対に返して下さいよ」と念を押しているので、延長はまずないだろう。
 日本に帰ったら、親が見つけてくれる見合い相手と結婚するつもりだ。男にだって結婚願望はあるのだ。滝田自身、見合い相手として好条件な男ではないが、次男である彼には婿養子という選択肢がある。入り婿を探している家庭の女性なら自分のような面白くない男でも相手にしてくれるかもしれない。
 思えば何もなく過ぎた四年であった。
 いや、何もなかった訳ではない。何もなかったどころか、ニューヨークやワシントンDCへの同時多発テロ、その後、炭素菌を入れた郵便物が各地のオフィスに届けられるといった騒ぎが立て続けに起き、この地に住んでいる事自体不安でたまらなくなる日もあった。日本の実家から「帰って来い」と連日電話が鳴った時期もある。塾の生徒の父親はマンハッタンで働く駐在員がほとんどだが、幸いといっては不謹慎ではあるが、直接塾に関係した者に犠牲者は出なかった。
 海外生活が楽しいのなんて最初の二、三年だ。それ以上長くなると、何もかも物珍しくなくなり、すべて「日常」になってしまう。そして些細な不都合な事が起きただけで、不満ばかりが募ってしまう。
 ああ、早く日本に帰りたい。
 憧れのニューヨークの空の下、滝田は毎日そんなことばかり考えていた。



 そんな滝田が寺本悟に出会ったのは、塾の同僚の渡辺の結婚式だった。
 渡辺に日本からの留学生の女性を紹介したのは塾の生徒の母親だ。日本の大手商社のニューヨーク支店長夫人である。新婦はその支店長夫人の姪に当たる女性で、留学生とはいえ短大卒業後しばらく勤めていた銀行を退職してから留学に来たので、年齢としては十分適齢期に達していたのだ。
 結婚式といっても教会で行う訳ではない。支店長夫人の主催で、仲間内だけのささやかな結婚披露パーティーを支店長宅で行うのだ。新郎新婦の両親も出席しない。出席者は、新婦の友人と塾の講師及び生徒とその保護者数名という極めてカジュアルなものだ。と、当初聞いていた。それが渡辺によると、何故か支店長の仕事の関係者や支店長夫人の個人的な友人も大勢招待されているという。パーティー好きな支店長夫人にとって、姪の結婚は単なる人を集める口実だったらしい。夫人の実家は相当な資産家だと聞いている。
 結婚式の日は見事な晴天であった。
 最高級住宅地の一角にある支店長宅にマスタングが着いた。その地域としては小さめではあるが、それでもかなりの豪邸である。車から降りた滝田は、腰をかがめてドアミラーを覗き込み、髪の乱れを直しながら、思わずいやらしい笑みをこぼした。
「参列する花嫁の友人たちは美女ぞろいだ」
 昨日の渡辺のこの一言で、職員室の独身講師達は奮い立った。都合が悪いから欠席すると言っていた奴らまで、急きょ出席と改めたくらいだ。若い女性達にとって友達の結婚式というのは、「私も結婚したい」願望が最高に高まる時だと聞く。滝田も期待に胸膨らませ、黒い礼服の胸元のネクタイのズレを直しながら歩き始めた。
 招待客はまず玄関ホールでシャンパンを飲みながら式の開始を待つ。裏庭で料理の準備ができ次第、全員外に移動するそうだ。支店長の仕事関係の客であろうか、日本人以外も多数参列している。
 会場入りしてすぐに、まず渡辺に一言祝いの言葉でも掛けよう、と思ったのだが、渡辺は支店長とその友人かと思われる年配の男性達に囲まれ、とても滝田が入り込む余地はなさそうだ。腕には美しい花嫁の手首がしっかりと組み込まれていた。
 渡辺は滝田より三つ年下で、屈託がなく滝田によく懐き、滝田も同僚の中では一番馬の合う奴だと思っている。その顔は男の滝田から見て特にハンサムとは思えないのだが、いわゆる今時の若者というのか、女性にはかなりモテていたようだ。国籍を問わず、渡米当初より常に複数のガールフレンドがいたことは滝田も知っている。
 滝田と渡辺は親しかったので、フィアンセであった今日の花嫁と滝田は数回面識がある。自慢のフィアンセである彼女を滝田に紹介する時の渡辺は本当に幸せそうであった。普段着でも十分可愛らしい女性であったが、今日この晴れの舞台に純白のウェディング・ドレスを纏った彼女は、まるでディズニー映画に出てくるお姫様のようだ。
 渡辺にはもう帰国の辞令が出ている。帰国して塾は退職し、家業を継ぐのだそうだ。大きな老舗の呉服屋だという。支店長夫人のお蔭で晴れて夫婦揃っての帰国となった訳だ。帰国後、東京のホテルで改めて盛大な披露宴を挙げるそうだ。「凱旋帰国だな」と周りに冷やかされ、渡辺は満面の笑みである。
 塾の講師たちはしばらく大人しくシャンパンを飲んでいたが、やがてじわじわと女性たちに近付き、「二次会、二次会」と騒ぎ始めた。花嫁の友人は全員若い日本人女性だ。大学には様々な国から留学生が来ているのであろうが、どうしても日本人同士は固まってしまうものらしい。講師たちは徒党を組んで彼女らに近付き、既婚の大岩が早速二次会の約束を取り付けた。
 渡辺はいい奴だ。明るく気さくで、会話も上手で一緒にいて楽しい。同性の滝田でさえそう思うのだから、女性であれば当然好感を持つであろう。支店長夫人が年上である滝田ではなく、後輩の渡辺に自分の姪を紹介したのも理解できる。塾で支店長夫人と会話する時も、渡辺は冗談を交えなが夫人を楽しませていたことだろう。
 それに比べて滝田はどうだ。華やかな若い女性たちを目の前にして、さっきから一言も話していないではないか。そういう滝田は女性から見てきっと「つまらない男」に見えるのであろう。大勢の中で中心となって会話を盛り上げる才能などない。
 退屈になった滝田は、シャンパンをもらおうと同僚の元を離れた。
 ふと気が付くと、姿勢の良い東洋人の男性が滝田の方を見ている。誰か他の人を見ているのかと思い後ろを振り向いた、が、誰もいない。やはり滝田を見ているのだ。タキシードの似合う端整な顔立ちをした背の高い男だ。しかし滝田ほど高くはない。髪は長からず短からず、体の線は細いが決して軟弱には見えない。片手にシャンパンを持ち、背筋はスッと伸びている。
 滝田はハッとしてすぐに自分も背筋を伸ばす。かねがね猫背を直そうと思っているので、一日に何度も思い出したように背筋を伸ばす癖がついているのだ。
 まだこっちを見ている。
(日本人かな?)
 塾講師をしていると、相手が日本人の場合、こちらは知らずとも向こうはこちらを知っているということがよくある。塾で一度や二度、保護者会や受験説明会で会ったことがある程度でも、向こうはこちらの顔を憶えているのだ。
(どうせ生徒の父親だろう)
 滝田は軽く会釈した。若そうな男だが、結婚が早ければ小学生の子供がいてもおかしくはない。この結婚式に来ているということは、きっと渡辺の担当の生徒の父親だ。後で参列している生徒たちによる祝辞と合唱があると聞いている。
 滝田が会釈をしたのを見ると、その男は丁度通りかかったウェイターのトレイからシャンパンを取り上げ、滝田の方へ近付いて来た。白い前歯が見えた。歩く姿勢も良い。軍人のようでもあり、舞台の上のモデルのようにも見える。近くまで来ると、シャンパンを滝田に差し出しながら言った。
「はじめまして。寺本といいます。大学の音楽科でピアノの講師をしています」
 父兄ならば、そんな自己紹介はしないだろう。何年生の誰それの父です、いつもお世話になっています、と来るだろう。つまり、予想は見事に外れた。
「あ、どうも、いただきます。ボクは滝田といいます。渡辺と同じ塾の講師です。ええと、渡辺とはどのようなご関係で? あ、それとも花嫁さんの関係の方ですか」
「僕は、このお宅の息子さんにピアノを教えてまして」
「ああ、マサハルくんですね」
 マサハルは支店長の次男で、現在小学校の四年生だ。滝田の塾に通っている。
「ええ。彼のお母さんに頼まれて、庭でBGMのピアノを弾くんです」
 そう言えば、この玄関ホールには何かが足りないと思っていた。ピアノだ。海外ドラマのセットに出てくるようなこの玄関ホールには、上に寝られるくらい巨大なピアノがあって然るべきなのだ。裏庭に目をやると、芝生の上に、上に寝られるくらい巨大な黒いグランドピアノが置いてあった。
「ここじゃなくて、外で弾くんですか」
「そうなんですよ。最初、ここで弾くって聞いてたんですけど、あまりに天気がいいので、急きょ外に出したらしいんです。調律がおかしくなってないといいけど…」
「そうですね。暑からず、寒からず、九月のいい陽気に恵まれましたよね」
 広い裏庭では黒服の給仕たちが慌しく料理を運んでいる。今日は本当に良い天気だ。渡辺は幸せ者だ。天まで祝福しているではないか。招待客も続々と集まって来ている。
「しっかしでかいピアノですね」
「ボールドウィンのフルコンサートピアノです。癖の無い、いいピアノですよ」
「まさか、タダで弾くんじゃないですよね」
 初対面の人間に失礼な質問をしてしまった。
「え? あの、バイトではないですから。それに、いいピアノですから、思う存分弾かせてもらえてありがたいくらいです」
「駄目ですよ、ちゃんと請求しなきゃ」
 滝田がやや責めるような口調で言ったので、寺本は少し困った顔になった。
「いえ、あの、マサハルくんのお母さんには、いつもよくしてもらってますし…」
「それはそれ、これはこれですよ。うちの兄の結婚式で、やっぱりピアノの生演奏を頼んだんですけどね、五万だか何だか払ったって言ってましたよ。駄目ですよ、請求しなきゃ」
 ここまで言ってしまってから、滝田はやっと「大きなお世話だな」と気が付いた。
「先生、寺本先生」
 新婦の叔母、つまりマサハルの母親が寺本を呼びに来た。大手商社の支店長夫人らしく風格のある女性だ。手には大きな赤い薔薇の花を一輪持っている。黒留袖でも色留袖でもなく、目を見張るような豪華な振袖を身にまとっている。海外のパーティでは既婚の女性でも華やかさを出すために振袖を着ることがあるとは聞いているが、金と銀と赤の輝かんばかりの織り模様で、見ようによっては花嫁衣裳だ。姪の結婚式ということで張り切っているのは解るが、やや目立ち過ぎである。化粧もきつく、セットした頭も異様に大きい。
「あら、滝田先生、こんにちは。すみません、お話し中に。寺本先生、本日はお越し頂いてありがとうございます」
 支店長夫人は寺本に向かって深々と頭を下げた。盛り上がった大きな頭が少しずれた。
「本日はおめでとうございます」
 寺本も頭を下げた。
「あらぁ、先生、素敵だわぁ、タキシード。これじゃ誰が新郎だか解らないわね」
 夫人は寺本の上着の襟をさり気なく触った。その指には見事なダイヤモンドが光っている。寺本の襟のボタン穴に赤い薔薇を挿すと上目遣いに言った。
「そろそろスタンバイして頂いてよろしいですか? 間もなく皆さん庭に出ますので、よろしくお願いしますね」
「はい。それでは、先生、また後ほど」
 滝田に向かってそう言うと、寺本はマサハルの母親に引っ張られるように庭へ出て行った。
「あ…はい…どうも」
 寺本がいなくなってから、滝田は小さくつぶやいた。

 式は花嫁のウェディング・ブーケ・トスで最高の盛り上がりを見せた。ブーケを見事に受けたのは花嫁の友達の一人で、周りの女性たちと抱き合って大喜びだ。
 そのまま新郎新婦は家の前に停めてあった白いキャデラックのオープンカーに走って乗り込んだ。そして後ろに付けたいくつもの空き缶をカラカラと鳴らしながら、そのまま新婚旅行に行ってしまった。彼らが一番やりたかったのはこれだったそうだ。新婚旅行といっても行き先はマンハッタンで、セントラルパークの南のプラザ・ホテルのスイートルームに一泊するだけだ。本格的なハネムーンは後日ゆっくりということだが、あの渡辺の汚いアパートで「初夜」というのも味気ないということで、花嫁から「とりあえずホテルのスイートに一泊」という案が出たそうだ。
 カラカラという音が去ると、残された参列者たちは顔を見合わせて苦笑し、ぞろぞろと家の中に歩いて戻った。
 そして式はお開きとなった。
 祝儀も引き出物もない、気軽な良い結婚式であった。
「ほら、滝田、二次会行くだろ? チャンスだぞ、チャンス、次の花婿」
 塾講師の大岩が声を掛けてきた。
「合コンですね。行きます、行きます」
「じゃ、タコツボ集合な。おれの名前で予約してあるから。おれは女の子たち乗せて後から行くよ。よかったら、ピアノの先生も行きませんか?」
 大岩は滝田の隣に立っていた寺本にも声を掛けた。
「ありがとうございます。行かせて頂きます」
 寺本は軽く会釈した。滝田が聞いた。
「先生、タコツボの場所、解りますか?」
「ええ、解ります」
「それじゃ、向こうで」
 支店長宅から各自車を運転してタコツボに向かった。

 タコツボは日本人サラリーマンのよく集まる和風居酒屋である。美味しいと評判の居酒屋で、塾の仲間は何かというとここを利用している。経営しているのは日本人で、店内の様子も料理もアメリカにいることを忘れてしまいそうなほど和風である。昼は定食を出しているが、夕方から出るのは酒と寿司と居酒屋メニューの料理だけだ。
 二次会という名の合コンの男性陣は塾講師八名と寺本。講師の半分は妻帯者で、残り三人は滝田より若い独身男だ。五十を過ぎた校長は、結婚式には参列してスピーチをしたが、さすがに二次会には参加していない。
 女性陣は五名。みな二十代前半だという。髪を茶色く染め、様々な香りに身を包んでいる。また結婚式ということもあり、かなり派手なドレスを身にまとっている。両肩が丸出しになっているドレスもあれば、背中がほとんど見えているドレスもあった。それがいつも子供に囲まれている塾講師には良い目の保養となった。
 滝田はドキドキする胸を押さえ、隣の寺本の耳元でささやいた。
「絶景ですね」
 寺本は口元にだけ笑いを浮かべた。
 独身講師たちは「あわよくば」と女性たちを一人一人品定めしている。これを機に新たなカップルができあがれば、喜ばしいことである。
 しかし積極的に女性に話し掛けているのはむしろ既婚者の方だった。最も張り切っているのは坂口と大岩だ。二人とも既婚でもう中学生の子供がいる。
 坂口は校長の次に年長で、他の講師たちを指導する立場にある男だ。人徳があり滝田も信頼しているのだが、こと若い女の子となると品格をなくす。既婚にもかかわらず若い講師がたまに行う合コンには必ず参加している。それでも彼の場合、女の子に対しても他の講師に対してもセクハラ的な行動は全くしない。
 問題なのは大岩だ。二次会を設定した男で、極めて下品な男だ。品もないが、髪の毛もない。まだ四十代半ばだが、耳の後ろにわずかに毛が残っているだけで見事に禿げ上がっている。そのため、生徒達は坂口よりも年上だと思っているらしい。いつも独身の講師を捕まえては「まだ結婚しないのか」「どうしてだ」としつこく問う。「いい医者を紹介する」「ビデオを貸してやる」などと言われて、若い連中はみなウンザリしている。悪い男ではないのだが、滝田もほとほと困っているのだ。
「あなたも塾の先生なの?」
 ビールで乾杯した後、女性陣から最初に出た言葉である。その女性の髪は茶色というより金色に近い。ふわふわとカールして肩の辺りで揺れている。目が大きく色白で小顔の美しい女性である。今時は素人でもこんな芸能人のような顔をした女性がいるものなのだな、と滝田はおじさん臭い感動を覚える。
 その女性に話し掛けられたのは寺本だ。しかし寺本は気付かず、滝田の隣で黙ってビールを飲んでいる。
「ねえ、趣味でピアノ弾いてんの?」
 寺本はまだ気付かない。
「ねえってば」
 女性の声が少し苛立って、寺本はやっと気付きその女性を見た。
「その人は塾の生徒のピアノの先生だよ」
 寺本の代わりに女性の隣に座った大岩が答えた。
「おれもピアノ弾けるんだよ。ネコ踏んじゃった」
「ねえ、大人にも教えるわけ? あたしにも教えてよ、ピアノ」
 その女性は大岩を無視して寺本に話し続けている。しかしまた大岩が代わりに答えた。
「駄目だよ。その先生の専門は小児科だ」
 知りもしないのに大岩はそう言った。寺本を合コンに誘ったのは大岩なのに。
「おれは成人科だよ。いつでも診察してあげるから。ん? どれどれ? あ、これは重症だ。かなり腫れてる。すぐにでも手術しないと駄目だなぁ」
 女性の胸元に顔を近付け大岩が言った。鼻が今にも胸についてしまいそうである。滝田は思わず身を乗り出した。大岩にはやや酒乱の気があり、酒が入ると見境なく女性にまとわり付いてしまうのだ。かなり際どい事までしてしまうことがたまにあるので、酒の席では周りは常に気を付けている。
 小顔の女性の眉間にしわが寄る。マズイ、と滝田が立ち上がろうとした時だ。
「やだ、この人、ノリがオヤジ。っていうかホンモノのオヤジ。こら、お仕置きだぞ、ペンペン」
 彼女は大岩の禿げた頭を割り箸で軽く叩きながらケタケタと笑った。他の女性たちも声を出して笑い出し、若い講師たちはいっせいに引いた。
 拍子抜けした滝田は隣の寺本を見た。すると寺本も滝田を見た。滝田が苦笑いすると、寺本も肩をすくめて笑った。
 会が始まってまだ三十分も経っていないが、既にウィスキーのボトルは二本空いている。飲んでいるのは主に女性たちである。男たちは運転して帰らなくてはならないので泥酔することはできない。しかし女性たちはタクシーで帰るか、男たちの車で家まで送って貰うつもりでいるらしい。いくら飲んでも差し支えない。しかも彼女たちは相当強いのか、みな顔色ひとつ変わっていない。ブランド物のシガーケースから煙草を出して吸い始める者までいた。
「それでさ、みんな独身なわけ?」
 年齢の割りに髪の多い坂口が聞いた。
「決まってるじゃん。結婚してたら留学なんてできないよ」
「カレシとかいるの?」
「ナイショー」
「この子いるよ、ラテン系。ものすっごくかっこいいの、下半身強いし」
 滝田が一瞬ひるむ。やや血の気が引いた。
「うわ、そんなこと言われたら想像しちゃうよぉ、ふん、どうせおれはアジア人だよぉ、弱いよぉ」
 大岩が大袈裟に頭を抱えた。
「あたし、縛られるの嫌いなの」
「結婚なんてしないわ、あたし。自由に生きるの」
「それなのに、ブーケ、キャッチしちゃうし」
 女性たちの明け透けな態度のお蔭で、既婚の講師たちは更に軽口が叩き易くなる。彼女たちの饒舌はとどまるところを知らない。
 その後もえげつない会話は続き、数人の講師たちはやや不快な面持ちだ。滝田は先程から帰りたい気持ちでいっぱいである。
 会話がよりプライベートな話になるにつれ、下ネタ話なら誰にも負けない大岩はますます調子が出てきた。大岩が何か言うたびに女性たちの間に高らかな笑いが起きる。大岩が何を質問しても、女性たちは期待通りの答えをくれる。他の講師たちは顔をしかめたり苦笑いを浮かべたりしながらも、熱心に聞き入っていた。
 滝田は日本にいる時、会話についていけない飲み会の場合、ひたすら飲むことにしていた。しかしアメリカでは、飲んでしまっては運転して帰ることができない。
 いくら飲んでもすぐに酔いが醒める人間もいるが、滝田は酒が好きなくせにかなり弱く、おまけに人一倍醒めるのが遅い体質だ。結婚式でもシャンパンを一口二口飲んだだけだ。二次会でも、飲んだ酒は最初の乾杯のビール一杯だけで、後はウーロン茶で我慢している。
「ハルカだっていたよ、フランス人のカレ」
 ハルカというのは今日の花嫁の名前だ。
「…フランス人? それって…白人?」
 坂口が聞くと、別の女性が答えた。
「うん、白人。渡辺さんだって知ってると思うよ。えっと…ピエール…だっけ?」
「そうそう、ピエ~ル。英語しゃべっててもさ、フランス語に聞こえるのよね。ハルカって可愛いからさ、モテるんだよね」
「そうそう、その前はアラブの大富豪の息子だし、その前は…」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ。彼女、留学に来たの、いつ?」
 坂口が少々焦りながら問う。
「去年だよ。ええと、その前はケニア人留学生だし、その前は…誰だっけ?」
「その前は…ちゃんとアメリカ人だったよ」
 若い講師たちは言葉を失い、顔を見合わせて黙った。すると大岩が険悪な空気を恐れたのか、すぐに口を出した。
「ま、いいんじゃない? 渡辺だって巨乳のイタリア人のカノジョ、いたしさ」
「ホントっすか? 渡辺さん、やるなあ」
 坊主頭の若い佐藤が大きな声を出した。
「よしましょうよ、大岩さん」
 滝田が制すと、目の据わった大岩は滝田を睨み付けながら言った。
「いいじゃないか、別に、ホントのことなんだから」
「大岩さん…」
 滝田が声を潜めて言うと、大岩は更に声を荒げた。
「悪い事じゃないだろ? お前みたいに、ずっと女っケがないって方がおかしいんだよ、病気じゃあるまいし。それとも病気か?」
 女性たちが滝田を見てクスッと笑った。滝田は恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じた。
 大岩の言う事は正論だが、この場で話す事ではない。渡辺のイタリア人のガールフレンドのことは滝田も知っていた。彼が本気で付き合っていた女性だ。しかし塾の誰もが知っていることではなかった。
 その場の張り詰めた空気を解きほぐす様に、年長の坂口が明るく言った。
「ま、もういいじゃん、そんなこと。お互い大人なんだし、もう別れてるんだし」
 それを聞いた同僚の一人がうなずいた。
「おめでたい日なんだからさ、どうせ今頃あっちは二人で盛り上がってるんだから、こっちもこっちで盛り上がろうや」
 坂口がそうまとめると、他の講師たちも顔を見合わせて口々に「そうだ、そうだ」と繰り返した。
「二股掛けてた訳じゃないし」
「うん、ま、お似合いの二人、だな」
 そして会はまた盛り上がりの感を見せた。
 すっかり上機嫌になった大岩が叫んだ。
「飲もう、飲もう、お嬢さんたち、ベロンベロンに酔ってもいいよ、おれが送って行くから。ベッドまで運んであげるよ」
 滝田はもう気持ちも膀胱も我慢の限界に達し、席を立ってトイレに向かった。

 誰もいないトイレには空調の音だけが響いていた。滝田は一番奥の便器の前に立つと、いつもどおり上を向いて目を閉じた。こうするとリラックスできるのだ。
 大きくひとつ深呼吸した後、ズボンのファスナーを下ろしてパンパンに張った物を出した。ヒヤッとして気持ちが良い。
「ったく、まいったなあ…」
 大量に出た。
「…………気持ちいい」
 体からスーッと毒が出て行くようで快感だった。体がぶるぶるっと震えた。
「ボクは気持ちいいけど、お前はつまんないよな、こんな所でしか使ってもらえなくて」
 目を閉じたままつぶやいた。
「悪いな、病気とか言われて」
 息子にしみじみと語り掛ける。
「もうちょっとここで、頭、冷やしていくか?」
「そうですね。ここは涼しいから」
「うわっ」
 慌てて目を開けて隣を見ると、いつの間にか寺本が立っていた。
 アメリカに来てから、滝田は独り言を言う癖がついてしまった。日本語で何かつぶやいても、どうせ周りには解らないからだ。
「あ、すみません、驚かせて」
「あの…いつからここに?」
「たった今です」
「ボク、何か言ってました?」
「いえ、特に」
 滝田は下を向いて、しばらく黙った後、つぶやいた。
「…こいつ、びっくりしてエンストしちゃいましたよ」
「えっ、だ、大丈夫ですか?」
「ま、残尿感はないから大丈夫でしょう。アルコールも抜けたみたいだし。泌尿器科なんて絶対行きたくないですからね」
「…は?」
「いくら男の医者だって、こんなの見せたくないでしょ? 見る方も嫌でしょうし」
「……まあ、それが仕事ですから…ねえ…」
「それはそうですけど、こんなもの、一日に何本くらい見なきゃいけないんでしょうね。夜中にうなされたりしないんでしょうか。同情しますよね」
「はあ……」
「女の泌尿器科もいるんでしょうけど。あれ? いないのかな? 男の医者でも嫌ですけど、女医さんだったりしたら、もう、絶対に、回れ右で帰って来ます」
「それは…同感です」
「痔にも気を付けてます。肛門科も嫌ですからね」
「………はあ……」
「やっぱりもう出ませんね」
 滝田はエンストした物を軽く振ってしまい、ズボンのファスナーを上げながら言った。
「実はボク、逃げて来たんですよ、耐えられなくて」
「僕も同じです」
 洗面台に向かって歩く。
「でも彼女たち、先生と話したがってましたよ」
 それから、寺本はやっと便器の方を向いてファスナーを下ろし始めた。
「そんなことないですよ…」
「式の最中だって、みんな意味もなくピアノの周りに集まってたじゃないですか」
「…いや……」
「それにしても、参りましたね、彼女ら」
「はは、若いですから、仕方ないですよ」
「あれ? 随分と理解があるんですね。でも、若いからって何でも許されるもんじゃありませんよ」
「そうですね。相手のいることですし。でも、若い人は責められませんよ。僕なんて物心ついたのはつい最近ですから」
「あ、それを言ったら、ボクなんてまだ物心ついてませんよ」
 寺本も用を足し終え、出入り口近くの洗面台に向かった。液体石鹸を手につけながら滝田が言った。
「ああ、もっとガンガンに飲みたいなあ。でも車だし。先生も結構飲んでたけど、全然酔ってませんね。お酒、強いんですか?」
「結構強いですよ」
「それはいいですね。こっちの人って車通勤だから、飲み屋でもガンガンに飲まないですよね。こっちの飲み屋って儲かってるのかなあ」
「そうですね。電車を使う人も駅から自宅は車だし」
「先生、日本ではどちらにお住まいでした? あ、それとも、こっち生まれですか?」
「いえ、生まれも育ちも日本ですよ。東京です」
「ボクも東京です。多摩ですけど。ボク、結構好きだったんですよね、酔っ払いだらけの夜の中央線って。なんかサラリーマンの哀愁って感じで。もんじゃ焼きは困りますけどね」
「あは、ありましたね、床の上のもんじゃ焼き」
「ボクは酔いがなかなか醒めない方だから、いつもどうやって家まで辿り着いたのか解らなくて。でも、そういうの、嫌いじゃなかったんです。目が覚めたら終点の高尾ってことも何度かありました」
 もう既に手はペーパータオルで拭き終わっているのだが、寺本がいつまでもドアの前に立っているので、滝田は外に出られないでいる。しかしここは涼しくて気持ちがいい。店内は少し暑過ぎる。ここにいることは不快ではなかった。
 涼しさのお蔭で滝田の酔いもかなり醒めた。最初のビール一杯だけで醒めるのにこれだけ時間が掛かってしまう。目を閉じて頭を大きく何度も振って、両手で頬をパンパンと叩いた。息を吐き出すように言った。
「今日はもう帰ります。家に帰って一人で飲みます」
「よかったら、うちにいらっしゃいませんか?」
「…はい?」
 頬に両手を当てたまま、滝田は目を丸くした。
「ここからすぐなんです。先生とは話が合いそうだ。うちで好きなだけ飲んで、ゆっくり酔いを醒ましてから家に帰ればいいですよ」
「いいんですか? こんな時間にお邪魔して」
 思えば、滝田には同僚以外の知り合いがいない。ここに来てからほとんど自宅と塾の往復だけで、別の世界に足を踏み入れたことがないからだ。語学学校では個人レッスンを取っていたのでクラスメートなどいなかった。お盆などの長期休みは、日本へ一時帰国するか、一人でバックパックを背負って旅行に行ってしまう。旅行先で友達を作るようなこともしなかった。
 同僚は話題が共通しているので話をしていてもそれなりに楽しいのだが、仕事の愚痴をこぼせないという欠点がある。自分の過去についても、無防備に話して次の日塾中に拡がっていたという痛い目にあったこともある。
「でも、いいのかなあ、もう真っ暗なのに、初対面の人の家に行ったりして…」
「それとも、明日早いんですか? もう、うちに帰ってお休みになりたいとか」
「いえ、塾は月曜日は休みです」
「だったら是非」
「…それじゃ、お邪魔しちゃおうかな」
「ではこのまま行きましょう。席に戻って取ってくるものはありますか?」
「いえ、ボクはここの携帯と財布だけです」
 上着の内ポケットを叩いて確認した。
「あと、車の鍵か」
 ズボンのポケットも叩いた。
「それじゃ、駐車場で。僕は楽譜を取ってきます」

 寺本の家はタコツボから車で五分程の住宅地にあった。平屋建ての一軒家である。滝田は寺本の緑のカムリの隣に赤いマスタングを停めた。静かな住宅街で、辺り一面物音ひとつしない。
 初めて行く家というのは誰しも興味があるものだ。車から降りた滝田は家の周りをゆっくりと見渡した。もう辺りは真っ暗で壁の色ははっきりしないが、煉瓦造りであることは解った。隣の家との間にフェンスはなく、家の前の芝生の上に野球のバットとボールが落ちていた。家の明かりは消えている。一人暮らしなのか、家族はもう寝てしまったのか、留守なのか。
 玄関の鍵を開けながら寺本が言った。
「靴はそのままでいいですよ」
「脱がなくていいんですか?」
「ええ。最初は脱いでもらってたんですけどね、アメリカ人は何度言っても脱がないから、僕まで脱いだり脱がなかったりになっちゃったんです。もちろん、先生が脱いだ方が楽なら脱いで下さいね。どっちでもいいんです。どうぞ」
 玄関ドアを開けて室内灯を付けると、まず目に飛び込んできたのは暗闇の中の二台のグランドピアノだった。
「うわ、二つもある」
「家で教えてますから、二台必要なんです。まず手を洗いますか?」
「はい。あの、やっぱり靴脱ぎます」
 滝田は自宅アパートでは必ず靴を脱いでいる。アメリカに住む日本人は家ではたいてい靴を脱ぐ。滝田はいつも靴と一緒に靴下も脱いでいる。本当はズボンも脱ぎたいところだが、他人の家でそうする訳にもいかない。
「バスルームはあそこです」
 寺本は奥のドアを指差した後、上着を脱ぎながらキッチンへ入って行った。
「ウィスキーでいいですか?」
「…あ、はい、恐れ入ります」
 そうか。酒を飲みに来たのだった。すっかり忘れていた。初めて会った人の家に酒を飲みに来るとは、かなり図々しい話である。しかも手ぶらだ。しかしこれは寺本の誘いであり、滝田が強引に押しかけた訳でない。滝田はそう自分に言い訳をした。寺本はきっと、こうして人を呼ぶのを楽しむ社交的な性格なのだろう。
 バスルームで手を洗って、軽く顔も洗った。掛けてあった白いタオルで拭いた。タオルはラベンダーの香りがした。乾燥機の柔軟材であろう。
 リビングに戻ると、寺本がグラスを二つ片手に持ってキッチンから出てきた。もう片方の手には氷の入ったアイスペールを持っている。テーブルの上には既にウィスキーの瓶が置いてあった。
 長いソファと短いソファが斜向かいに置いてある。滝田は勝手に長いソファに座り、上着を脱いでソファの背もたれに掛けた。
 寺本は、グラスとアイスペールをテーブルに置き、短いソファに腰を掛けた。黒いタキシードの上着を脱いだので、白いシャツに蝶ネクタイという姿だ。ソファに腰掛けると、ズボンの膝のプリーツがくっきりと見えた。
 滝田は家に帰ると上着を脱いでネクタイも外す。その前に靴下とズボンも脱ぐので、ワイシャツにトランクスという姿でいつもシャワーを浴びるまでの時間を過ごすのだ。
「あの、それ、着替えなくていいんですか?」
 滝田が寺本のタキシードのズボンを指差して言った。
「これですか? いや、別に僕は…」
「ボクに気を遣わず、着替えるなら着替えて下さいよ」
「いえ、あ、先生、着替えますか? 何か服をお貸ししましょうか? でも、先生じゃ、サイズが合わないかな…」
「いいえ、ボクはこのままで大丈夫です」
 少し格好つけて嘘を吐いた。
「あのぉ…」
 滝田が小さく言った。
「はい?」
「その…『先生』って呼び合うの、よしませんか? とか言って、ボクが呼んじゃってたんだけど」
「ああ…」
「テラモトさんって、お寺の『寺』に…」
「読む本の『本』です」
「寺本さんか。ボクは流れる『滝』に、田んぼの『田』です」
「滝田さん、ですね」
 水割りを作る寺本の手を見た。大きめのグラスを片手に二つ楽に持てるということはかなり大きな手だ。左手の薬指に指輪はない。
「寺本さん、手が大きいですね。ピアノの先生だからか。ボクも大きいんです。単に体が大きいせいですけど。ボクとどっちが大きいですかね」
 そう言って滝田は右手を拡げて前に伸ばした。
 手の大きさを比べようと手の平を拡げたつもりだったのだが、寺本には意味が解らなかったらしく、こっちを向いたまま黙ってしまった。
「…あの、手の大きさを比べようとして。なんか、合コンのエッチなおじさんになっちゃいましたね、すみません」
 滝田は手を引っ込めながら苦笑いした。
「いや、比べましょう」
 寺本は左手を真っ直ぐに伸ばした。滝田はその手に自分の右手に重ねた。
 親指から小指まで、すべての指がぴったりと重なる。やはり体の大きい滝田の手のほうが若干大きい。寺本の指は真っ直ぐで細くて長い。
「ボクの方が少し大きいですね。このトシでピアノ、始めちゃおうかなあ」
「教えますよ。この手ならどんな曲でも弾ける」
「あのぉ……奥さんは…お留守ですか?」
 手を離しながら遠慮がちに滝田が聞いた。いきなり「結婚してますか?」と聞くのもえげつないと思い、彼なりに精一杯遠回しに聞いてみたのだ。
「奥さんですか? 奥さんは、いませんよ。独身の一人暮らしです」
「あ、そうだったんですか。いえ、あの、家の中が片付いてるし、前の芝生にバットとかあったから」
「ああ、近所の子のでしょう。昨日まではずっとホッケーのゴールがありましたね」
 ホッとした途端、急に緊張の糸がほぐれた。意味もなく顔がほころぶ。「はは、そうか、かっこよくても独身の人って、いるんですね、よかった、ははは」
 独り言のようにつぶやき、テーブルの上のウィスキーを一気に飲み干した。

 それから一時間は話しただろうか。しゃべっているのは主に滝田だ。酒を飲みに来たはずだが、元々アルコールに弱い滝田はそれほど飲んではいない。飲むよりもしゃべる方に忙しいのだ。
 生まれてからニューヨークに来るまで、滝田はずっと家族と暮らしていた。家族はいつも滝田の話を聞いてくれた。自分でも気が付かなかったが、ここに来て以来ずっと、思う存分話を聞いてくれる人が欲しかったのだろう。仕事の事から趣味の事から、話は後を絶たなかった。
 特に大学時代の話などをしたのは寺本が初めてかもしれない。他人が聞いても全く面白くないような大学時代の話も、寺本は笑って聞いてくれた。
「ですからね、とにかく、就職難だったんですよ、あの頃。バブルがはじけちゃって………あ、寺本さん、バブルって知ってます?」
「もちろんですよ。その頃はまだ日本にいましたから。学部を卒業してからこっちに来たんです」
「で、ジュリアードの大学院ですか。すごいですよね。音楽素人のボクでも知ってる大学だ。こっちに来てどのくらいになるんですか?」
「もう…ええと、丸々十一年か。この夏から十二年目に入りましたね。はやいものです」
「ってことは、三十三…四歳ですか?」
「まだ何とか三十三ですね」
 寺本が笑いながら言った。
「いや、若そうだな、寺本さん。二十代で通りますよ」
「はは、それは無理がありますよ。それにしても計算が速いですね、滝田さん。さすが塾の先生だ」
「ボクは三十一だから、寺本さんの方が年上だ。お願いですからタメ口きいてくださいよ。それと『滝田さん』じゃなくて『滝田』って呼んで下さい。みんなそう呼ぶし、なんか年上の人に敬語を使われちゃうと落ち着かなくて」
 寺本は黙って微笑んだ。
「でね、いくら会社訪問しても、内定なんてひとつも取れなくて」
「そんな有名大学の学生でも?」
「はい……って、有名大学って認めちゃってますけど、はは……」
「認めちゃって問題ないですよ」
 滝田の大学は、確かに私立大では最難関であることは間違いない。
「でね、サークルの先輩で、今の塾に勤めてた人に誘われたんですよ。共同経営で新しい塾を始めないかって」
 不景気の最中に起業とは、無謀な計画だとは思った。しかしその先輩は、不況の今こそ、子供に学歴をつけたがる親は、より良い塾を求めているんだ、と、かなり説得力のあることを言った。
「で、とりあえず、修業の意味で今の塾に入って、数年後には独立するつもりだったんですよ。無駄遣いしないで、必死に貯金しました」
 しかし景気は日増しに悪くなり、世の中は少子化の時代。しかも子供の数が年々減少する中で、都内の進学塾は増える一方。大した資金もないくせに新しい塾を開くなど、夢のまた夢であることに先輩も気付き始めた。
「で、その先輩、やっぱり塾はやめて家業を継ぐ、とか言っちゃって。残されたボクはどうすりゃいいんだ、って感じですよ」
 会社を興すんだ。小鼻を膨らませ、そう亮子に豪語していたのに。
「で、今の塾で頑張ることにしたんです。自分で言うのも何なんですけどね、ボク、かなりいい中高一貫の男子校だったんですよ。最難関校御三家とか呼ばれちゃって。だから、なんとか中学受験の指導まではできないこともないんです。これでも高校の途中までは優秀だったんですよ」
「これでもって、その大学だったら相当優秀じゃないですか」
 そう言って滝田はまたウィスキーを飲んだ。空になったグラスに、すかさず寺本が新しいウィスキーを作る。
 その時電話が鳴った。
「ちょっと失礼」
 寺本は立ち上がり、キッチンカウンターの上のコードレス電話を取った。花嫁の叔母かららしく、今日はお世話様でしたといったような声が受話器から漏れるほど大きく聞こえた。
 滝田は、出来立てのウィスキーをまた一気に飲み干すと、ダイニングテーブルの向こうの寺本に目をやった。受話器を持ったまま冷蔵庫を開けて中を見ている。
 長電話だが、支店長夫人が一方的に話し続けているだけのようだ。寺本は「ええ、はい」と相槌を打つだけである。
 受話器から「それではまた」と言う甲高い声が聞こえたと思ったら、すぐにガチャンという音が響いた。話すだけ話して勝手に切るタイプの人は多い。寺本は静かに受話器を置くと、キッチンから言った。
「ごめんね、長くなって。チーズがあるけど食べる?」
「はい、いただきます」
 待っている間家の中を見回した。日本にあればかなりの広い家である。平屋で、アメリカにおいては小振りな家だが、一人で住むには十分過ぎるほどの広さだ。リビングには二台のグランドピアノの他、残りのスペースに家具やソファが余裕を持って置かれている。日本で言えばいったい畳何畳になるのだろう。そんな所帯じみたことを考えた。
「ここ、借りてるんですか?」
「そうだよ」
「すごいですね。一軒家ですもんね」
「最初は大学の寮にいて、卒業してアパートに移ったんだけど、ピアノがうるさいって、両隣から苦情が来ちゃってね。仕方なく一軒家に移ったんだ」
「広いですよね」
「まあ、一人なら十分だね」
 一軒家の家賃は安くはないはずだ。しかし考えてみれば、三十三歳ならば家族を養っていてもおかしくない年齢である。そういう自分だって、三十一と言えば子供がいてもおかしくない年齢だ。
「山羊のチーズだよ」
 ガラス皿にチーズを載せて寺本がリビングに戻って来た。そして滝田の空のグラスにまた新しいウイスキーを作った。
「あの、すみません、いきなり暗い話しちゃって。もうやめますから」
「いいよ、続けて。僕のピアノの生徒も何人か君の塾に通っててね。マサハルくん以外にも、四、五人いるかな」
「あ、そうなんですか」
「受験の大変さはよく聞いてるよ。模擬テストの前の週は、たいていレッスンは休みにしてくれって言われるし」
 滝田はソファに仰け反り、ウィスキーのグラスを睨むように見つめた。別に睨んでいる訳ではないのだが、酔って目の焦点がよく合わない時にそんな目になる。
「ホントはね、国立目指してたんですよ。うちの高校の奴ら、たいていみんなそうです。だから一浪して、でも………次の年も落ちちゃった」
 かなり酒が回ってきたようだ。グラスの中で氷が溶け始めて琥珀色が薄くなっている。それとも目もぼやけてそう見えるのか。
「今、新しい氷を持ってくるからね」
 寺本が再び席を立ち、アイスペールを持ってキッチンに向かった。
「あ、そんな…」
 滝田がそう言った時にはもう寺本は冷凍庫を開けていた。アイスペールに新しい氷を入れ、新しいグラスと一緒に持って来た。そして、また新しいウィスキーを作っている。
「優秀な奴らってね、成績いいのに、ちゃんと女の子とも遊んでるんですよ。つまりは要領がいいんでしょうね。ボクなんて、高校の時は女の子なんて全く縁がなかったですよ」
 寺本は顔を背けてウィスキーを一口飲み、タキシードの脚を組み直した。
 彼はベストの代わりに幅の広い腰帯を着けている。腹巻のように胴を包んでいるのだ。下腹の出た男性であれば皮下脂肪を支える役目を果たすのであろうが、寺本の場合このカマーバンドが引き締まった胴を強調し、組んだ長い脚を更に長く見せている。靴もよく磨かれているのか黒光りしている。滝田も靴を脱がなければ少しはかっこよく見えただろうか。黒いビジネスソックスに靴を履かないというのは本当にオヤジ臭い。寝ぼけた声で言った。
「いや、大学に行っても、ほとんど縁がなかったな。なんか、上手く話せないんですよ、合コンとか行っても。まあ、それなりに、人並みのことはやってきましたけどね」
 寺本はウィスキーをもう一口飲み、視線はぼんやりと出窓の観葉植物に注がれている。左手の甲でグラスを持った右腕の肘を支えている。
 滝田は目を細めて寺本に見入った。今度このポーズをしてみたら、自分も女の子にモテるかもしれない。
「かっこいいなあ…、寺本さん」
 ソファに仰け反ったまま、ふて腐れた顔で言った。
「それはどうも」
「女の子にモテるでしょ」
「…………」
「モテるでしょ」
「…モテないよ」
「いや、絶対モテる。高校とか大学とかでもモテたでしょ」
「モテなかったよ」
「いや、モテたに決まってる。かっこいいし、それにピアノなんか弾けたら、もっとかっこいいもん」
「音大生はみんな弾けるからね」
「あ、そうか」
 寺本は空になったボトルを片付け、冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。

 夜は更けていった。滝田の話は止まらない。
「ボクっておしゃべりなんですよ。こんなに楽しくしゃべったのは何年振りだろう。しゃべってる方は楽しいけど……聞いてる方はたまんないですよね」
「そんなことないよ。楽しいよ」
「寺本さんも愚痴って下さいよ。何でも聞いてあげますから。何かないんですか?」
「そうねえ、愚痴ねえ、何かあったかなあ」
「それじゃ、宿題ですよ。ボク、今夜ここに泊まります」
 しらふだったらこんな失礼なことは言えなかったろう。駅のホームで酔っ払いがからむような目で見つめ、寺本も恐くて断れなかったに違いない。
「ボク、燃費が良くて、少しのアルコールで酔えるんです。乗ってるのは燃費の悪いアメ車なんですけどね。そんなに飲んでるつもりはないんだけど…もう限界です」
「泊まるのは構わないよ。明日の朝ゆっくり帰ればいいから。このソファはソファベッドになってるから、僕はここで寝るよ。君は寝室のベッドで寝てね」
 寺本の言葉に滝田は答えることなく、下を向いたまま目を閉じた。耳もよく聞こえなくなってきた。そして限界と言いながら、寺本の持ってきた缶ビールを開け飲み干した。
「もっと早く寺本さんと会ってればなあ、楽しいアメリカ生活だったのに」
「そう言ってもらえるとは光栄だね」
「マサハルくんのピアノの発表会に呼ばれたことがあったんですよ。二年位前かな」
「え、そうなの?」
 寺本は身を乗り出した。
「あ、寺本さんのピアノのリサイタルに誘われたこともあったな。マサハルくんのお母さんにチケット頂いて、塾から何人か聴きに行かせてもらったと思いますよ。でもボクは都合が悪くて行けなかったんです。次の機会には是非行かせて下さいね」
「いや…最近は全然開いてないんですよ…」
 少し寂しげに寺本が答えた。
「そうかぁ、行ってればなぁ、もっと早く寺本さんに会えたのに」
 寺本が目を細めた。
「一緒に飲んでもらえただろうし、いろいろ相談できただろうし、愚痴も聞いてもらえただろうし」
「今からでも、何でも聞きますよ」
「寺本さんのおこぼれでいいから、女の子紹介してもらったりできたのに」
「………………」
 いよいよ本当に限界が来たようだ。酔いと眠気と疲れで体が動かない。ソファの肘掛に頭を乗せて上目遣いに寺本を見た。
「あの女の子たちがお下品だからアッタマに来て、今日はガンガンに飲みたいって言ったでしょ?」
 寺本は黙ってうなずいた。
「あれ、嘘ですよ」
 滝田の目はもう完全に閉じられ、開くことはなかった。床についていた足もソファの上に持ち上げ、ソファの肘掛を枕代わりにして体は真横になっている。目を閉じたまま、低くくぐもったろれつの回らない声で言った。
「ホントはね、年下の渡辺の方が先に結婚したのが悔しかったんです。マサハルくんのお母さんがね、どうして年上のボクに先に紹介してくれなかったんだろうって。別にあの花嫁さんと結婚したかった訳じゃないけど、単純に、どうしてだろうって。また『はい、不合格』って言われたみたいで」
「寝室に行こう。ほら、立って」
「サクラチルって…」
 その晩それを言った後の記憶はない。



 明くる朝、目が覚めた時には時計は正午を回っていた。ソファから起き上がった滝田を激しい頭痛が襲った。
「ってぇ」
 ソファで一晩寝てしまった。寺本が毛布を掛けてくれたようだ。
 目の前の壁に昨日脱いだ礼服の上着が掛けられている。きちんとハンガーに掛かっている。寺本の姿は見当たらない。上着の胸ポケットに解りやすく飛び出したメモが入っている。滝田は頭を抱えてゆっくりとソファから立ち上がり、そのメモに手を伸ばした。
『夕べは楽しかったです。よく眠っているので起こさずに仕事に行きます。また会いましょう。寺本悟』
 メモの最後に自宅と携帯の電話番号が書いてあった。
 寝付くまでの夕べのことは憶えている。しかし、二日酔いの頭ではあまり細かいことは考えられなかった。とにかくいつまでもここにいる訳にはいかない。それくらいの判断力は残っていたので、もうひと眠りしたいところを何とか我慢して上着を着た。
 上着の内ポケットから財布を取り出して、寺本のメモを入れた。携帯と財布しか持ち歩かない滝田は、失くしては困るものはすべて財布に入れておくことにしているのだ。そして要らないレシートを一枚取り出して裏返しにした。見渡すとキッチンカウンターにペンがあったのでそれを拝借した。
『泊めて頂いてありがとうございました。後で電話します。滝田隆二』
 それから自宅と携帯の番号を書いた。
 外に出て空を見上げると、今日も昨日と同様の爽やかな晴天である。隣の家の裏庭からプールで遊ぶ子供の声がする。しかし吹く風に夏特有のもわっとした生温さはなく、むしろ空気はやや乾いた感じがする。プールの水音と一緒に子供のくしゃみが聞こえた。
 まだ晩夏の香りを漂わせながら、季節は確実に秋に向かっていた。
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