射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 1-3

 火曜になった今日もまだ微かに頭痛がする。 昨日寺本の家から自宅に戻ってからも、滝田は結局一日中二日酔いが取れずにテレビをつけたままソファで寝てしまった。
 こんなに飲んだのは日本にいた時以来かもしれない。昨日の夜は、寺本に礼の電話をしなくてはいけないと思いながら、結局いつの間にか寝付いてしまったのだ。
 昼頃に塾に着いた滝田は、職員室の窓から流れる雲を眺めていた。廊下を若い佐藤が歩いて行く。ふと思い出してその佐藤を呼び止めた。
「あ、そうだ、佐藤くん」
「あ、滝田さん、おはようございます」
「ああ、おはよう。日曜日のタコツボ、お金払わないで帰っちゃってごめんね。いくら?」
 背広の上着の内ポケットから財布を出しながら聞いた。
「ピアノの先生からもらいましたよ、二人分。一緒に帰ったんすよね?」
「え?」
 これはすぐにでも寺本に電話しなくては。昼間は留守であろうから夜に掛けようと思っていたが、とりあえず留守番電話に詫びのメッセージだけでも残すべきだろう。
「別に一緒に帰った訳じゃないのか。あの先生が帰っちゃって、女の子たち、大ブーイングだったんすよ。大岩さんは喜んでたけど。滝田さんが帰ったのは、誰も気が付いてなかったみたいです」
「だってあの先生を誘ったのは大岩さんじゃないか」
「女の子たちからのリクエストだったから仕方なかったんです。あの先生連れて来なきゃ合コンしないって」
 あ、そういう事だったのか。
「渡辺さん、まだ来てませんよ。張り切り過ぎて、今日は休みですかね。だってハルカさんって、うふ、やばいっすよね。初夜っていったって、ねえ、うふ」
「渡辺に余計なこと言うなよ」
「解ってますよ。あの後、酒乱の子が一人いましてね、すごかったんすよ。聞きたいっすか?」
「遠慮しとくよ」
 財布から札の代わりに寺本のメモを取り出して、机の上に無造作に置かれた携帯を取った。その携帯に話し掛けるようにつぶやいた。
「自宅……だな」
 まだあまり親しくない間柄の場合、携帯電話にかけるのは失礼なような気がする。運転中かもしれないし、仕事中かもしれない。平日のこの時間なら自宅にいることはまずないだろう。
 自宅に電話をすると、やはり留守電になっていた。
「あの、滝田です。解りますか? 日曜日に泊めて頂いた塾の滝田です。あの日は本当にすみませんでした。ええと…また夜に電話します。あと、タコツボのお金を立て替えて頂いてるそうで、重ね重ねすみません、気が付かなくて。今度会ったときに渡しますから。いや、すぐにでも渡しますから。え…と、また電話します。授業があるんで、夜遅くなっちゃうと思うんですけど、ええと…失礼します」
 留守電は昔から苦手だ。上手くメッセージを残せた試しがない。

 夕方になると現地校を終えた子供たちが続々とやって来る。彼らの授業が始まるまではまだ時間があるが、それまでの時間、彼らは自習室で自習をするのだ。塾の授業のない日でも、自宅ではなく塾に来て勉強する子が多い。
 宿題の丸付けなどの仕事が一段落した滝田が廊下で冷水機の水をマグカップに汲んでいると、四年生のマサハルが話し掛けてきた。
「先生、こんにちは。日曜日はどうもありがとうございました」
「いや、こちらこそ楽しかったよ。君のお母さんも大変だったでしょ。いい結婚式だったね。花嫁さんもきれいだったし」
「ありがとうございます。きれいというより、可愛い系ですね、ハルカちゃんは。昔は肥満児だったんですけど」
「え、ホント?」
「今じゃ典型的な今時の若者といった感じですよね。女性というのは変わるものです」
 マサハルは小柄で小太りの、小学生らしくない口調で話す少年だ。銀縁のレンズの厚い眼鏡を掛けている。
「渡辺先生、今日休みですって」
「らしいね。……式の疲れが出たかな」
 小学生相手に、初夜がどうのこうとは言えない。
「ご迷惑をお掛けしまして」
「は?」
「こうなったからには、渡辺先生はぼくの身内ですから」
「…ああ、そうだね。ま、大丈夫だよ。渡辺先生の授業は何とかなるから。あの二人、お母さんが引き合わせたんだよね。でさ、どうして渡辺先生だったわけよ」
「別に誰でもよかったんじゃないですか?」
「滝田先生じゃどうして駄目だったわけ?」
「そういう事をサラリと言えちゃうからじゃないですか?」
「はい?」
「自分の負けを平気で認めて、しかも敗因を直接関係者に聞いちゃうって、そういう天真爛漫なところじゃないですか?」
「…それ、どういう意味?」
「そういう意味です」
「解んないよ、教えてよ」
「ぼく、まだ小学生だからうまく説明できません」
 解るような気もするが、やはり詳しく聞きたいところだ。しかし、あまり小学生にしつこくするのも大人気ないように思えた。一度深呼吸をして自分を落ち着かせた。
「あ、結婚式で君のピアノの先生に会ったよ」
「ああ、寺本先生ですね。彼、かっこいいでしょ」
「ああ、かっこいいね」
「うちの母なんて彼のスタイリスト気取りで、お中元、お歳暮、必ず服や靴なんです。先生も先生で、大人しく着てますからね。あの人、着るものには無頓着なんですよ。日本でも親の買ってくる服、黙って着てたんですって」
「ま、ああいう人は、何を着ても似合っちゃうからね。白いTシャツにジーンズでも『オッシャレー』とか言われるタイプだ」
「先生は母の恰好の着せ替え人形なんです。うちの兄は親の選んだ服なんて絶対着ないし、ぼくなんてこの体型ですから、いつもオールド・ネイビーの太目サイズです。安上がりなもんですよ」
「でもタダでピアノ演奏させちゃいけないなあ。大きなお世話だけどさ、ちゃんとお礼はしたの?」
「さあ。母は、罪滅ぼしだからいいんだって言ってましたけど」
「何だそりゃ?」
「本当は、母はハルカちゃんに寺本先生を紹介したかったんですよ」
「ええええ? そうだったの?」
 寺本のタキシードの襟に赤い薔薇を挿した支店長夫人の姿が頭に浮かんだ。
「母自身が先生にラブでしてね。だから渡辺先生ではなく、何とか寺本先生と親戚関係を結びたくて、相当頑張ったらしいですよ」
 滝田は少し救われたような気がした。渡辺は、補欠合格だった訳だ。
「しつこいですから、うちの母は。でも先生は、何としてもつれなくて」
「付き合ってる人がいるんじゃないの? あのルックスなら」
「ぼくもそう思ったんですけど、馬鹿正直にいないって母に言ったらしいんですよ」
「先生を捕まえて馬鹿正直はないだろう」
「ぼくが、嘘でもいいから恋人がいるって言っちゃえって忠告したんです。先生はしばらく考えてましたけど、ぼくに説得されて、ついに母に『実は付き合ってる人がいる』って言ったんですって。で、やっと母は引き下がって。先生はものすごく申し訳ながって、結婚が決まったら結婚式でピアノを弾くって約束させられて」
「それで罪滅ぼしな訳ね。随分と都合のいい話だけど…。あ、ごめんね、君のお母さんだったね」
「いいんです。ぼくも同じ意見ですから」
「説得ってさ、どうに説得したの?」
「それはですね、ぼくもいずれ母に女性を紹介されるでしょ? その時、例えばぼくが母に『付き合っている女性がいる』って言ったらどうなると思いますか?」
「どこのどいつだ、連れ来い、ってか?」
「その通りです。さえてますね、先生。でも、寺本先生なら連れて来いとは言われないでしょ? そういうことです」
「そういうことって、どういうことさ」
「つまり、身を守るためには、吐ける嘘は最大限吐けってことです。ぼくみたいに、母に嘘を吐くことが許されない可哀想な人間だっているんです」
「はあ…」
「でも、滝田先生ってルックスは結構いいと思いますよ。問題はキャラですね」
「ご忠告ありがと。身に沁みるよ」

 平日の授業が終わるのは夜の九時だ。職員室に戻った滝田は机の上の携帯を取った。
「すみません、遅い時間に。滝田です」
「ああ、どうも、こんばんは。留守電聞きました。こちらから掛け直そうと思ったんですけど、授業中だと困ると思って」
 電話のせいか、寺本は敬語に戻っている。
「この前は本当にすみませんでした、醜態をさらしちゃって。それにタコツボのお金」
「いいんですよ。それはそうと、風邪を引きませんでしたか? あの晩、ベッドに運ぼうとしたんですけど……」
「重くて無理ですよね」
「…すみませんでした」
「とんでもないです。また近いうちに会えますか? お金も返さなきゃならないし」
「今からでもいいですよ。また飲みに来て下さい」
「いや、それはちょっと。授業は終わったんですけど、まだ自習室に生徒がいるので、ここを出るのは十時頃になっちゃうんですよ」
 結局、次の日曜日、塾の月例テストの後にまた寺本の家に行くことになった。タコツボでもよかったのだが、そうするとまた酒が飲めない。そうなるとどちらかの家が都合がよいのだ。それは解るが、二週続けて他人の家に押しかけるのはさすがに気が引けた。と同時に、週末の予定がないということは、マサハルが言っていた通りに、寺本には本当に今付き合っている女性はいないと思われた。
「いいんですよ。僕がその方が都合がいいんだから」
 そう言われると滝田も断る理由がない。どうせ週末は自宅で寝るだけだ。今度は酒もつまみも持参しなくては。そう思って電話を切った。



 日曜日、塾から一端自宅に戻り、スーツを脱いでジーンズに着替えた。
 それから酒屋に寄り、ハイネケンの瓶ビールを半ダースとブランディを買った。日本ならば裂きイカでも買うところだがアメリカではそうもいかないので、仕方なくナッツ類とビーフジャーキーを買った。
 先週は寺本の車の後を着いてきたが、今日は住所を聞いて地図を見ながら来た。
 見覚えのある煉瓦の家が見えてきた。煉瓦の色は赤だった。赤は滝田の好きな色だ。赤が好きで、車も赤いマスタングを買ったくらいだ。
 寺本がホースで芝生に水を撒いているのが見えた。水撒きの時でさえ背筋が伸びている。滝田の赤い車に気付くと、腰に置いていた左手を高く上げた。並びの良い白い歯が遠くからでもよく見えた。この前は髪をきちんと整えていたが、今日はやや乱れ気味である。芝生の上に、今日はバスケットボールがあった。
 マスタングを降りて玄関ドアに近付く。
「いらっしゃい」
「またお邪魔します」
 腰を屈めて玄関ドアの横の水道の蛇口を閉めながら寺本が言った。
「うち、スプリンクラーがなくてね。こうして水を撒くしかないんだ。でもこの匂いが好きだから結構気持ちがいいんだよ」
 ジーンズの腿で濡れた手を拭いた。こんなことをする人なのかと滝田は意外に思った。
「どうぞ」
 拭き終わった手を玄関ドアの方に差出した。ドアは開いていた。滝田は軽く会釈して玄関から家の中に入り、大きなスニーカーを脱いで、また勝手に奥の長いソファに腰掛けた。寺本は短いソファだ。
「すみません、これ、タコツボのお金です」
 塾の住所が印刷された封筒を寺本に差し出した。
 今日の寺本は水色の綿シャツに生成りのジーンズをはいている。この前のタキシードとは対照的なカジュアルな服装である。タキシードも似合っていたが、今日のスリムジーンズも細い脚によく似合っている。ブルージーンズではなく生成りというところが寺本らしい。白馬に乗った王子様しかり、白というのは昔からいい男の色と決まっている。この服もマサハルの母親が選んだ物なのだろうか。聞いてみたいと思ったが、それも失礼かと思いやめておいた。
 キッチンからコーヒーを落とす音が聞こえる。香ばしい香りも漂ってくる。
「いいよ、そんなの。お酒をこんなに買ってきてもらっちゃったし」
「いや、それはそれでまた別です」
 滝田は金を入れた封筒をテーブルの上に置いた。
「手、洗ってきます」
 そう言って勝手にバスルームに向かった。バスルームから戻ると、キッチンのコーヒーが落ちる音が止まって、シューシューという蒸気の音が聞こえてきた。寺本は立ち上がって、キッチンに向かいながら言った。
「まずはコーヒーでいいよね」
「あ、はい」
「砂糖とクリームはどうする?」
「両方お願いします」
「あ、でもクリームはないんだ。ミルクでいい?」
「はい、もちろん」
 滝田も立ち上がって、寺本のいるキッチンに入った。そして、両手を伸ばして上の棚の戸を開けた寺本の背後から、すっと右手を上に伸ばした。目の前に寺本のつむじが来た。
 寺本が驚いたように振り向く。
「あ、ごめんなさい、つい癖で」
 滝田は慌てて言い訳をした。
「いや、こっちこそ…ごめん、驚いたりして…」
 寺本は少しはにかんだ様子で再び前を向くと、また手を伸ばして、棚からマグカップをふたつ取り出した。
「何? 癖って」
 水道の蛇口をひねり、軽くマグを洗いながら寺本が聞いた。
「あの、高い所の物を取るのは、昔からボクの仕事って決まってるんです。家でも、大学の時も、塾でも。だからつい、誰かが手を伸ばしてると、あ、ボクが取らなきゃって思っちゃって」
「ああ、なるほど」
 寺本が笑った。
「でも、寺本さんなら、別にどこでも届きますよね。百八十はあるでしょ?」
「そうだね。六フィートちょっと欠けるくらいかな」
 洗ったマグをペーパータオルで拭いている。
「あの、コーヒー、ボクが注ぎます」
 ここに来るのはもう二度目なのだから、お客様然として座っている訳にはいかない。
「そう? 悪いね。それじゃ砂糖はここで、牛乳は今出すから。スプーンはこの引き出し」
 寺本は冷蔵庫を開け、取り出した牛乳パックを滝田に手渡した。それから滝田の持ってきたビールを一本ずつ中に入れ始めた。
「寺本さん、砂糖は?」
「僕は何も入れなくていいよ」
(そうだよな、男はブラックだよな)と思いながら、どうしても滝田は砂糖もクリームも入れてしまう。何から何までかっこ悪いなと思いながら、二つのコーヒーを両手に持ってテーブルに戻った。
「コーヒー、ありがとう」
 そう言いながら寺本がテーブルに戻り、この前同様ソファに深く座って長い脚を組んだ。しばらく二人は黙ってコーヒーを飲んだ。
 先に口を開いたのは寺本だった。
「この前は楽しかったよ」
「あ、ボクもです。すごく楽しかったです。それと、宿題はできましたか?」
「宿題?」
「そう、今日はボクが寺本さんの愚痴を聞く番ですよ」
「あ、そうだったね。困ったなあ…」
 寺本は本当に困った様子で言った。
「そうだなあ…特に…これといって」
 急に愚痴を言えと言われて、すぐに話し出せる人間の方が少ないだろう。滝田が不満が多過ぎるのだ。
「ガレージがいっぱいで、車が入らないとか…。それは愚痴じゃないか…」
 寺本は上に伸ばした両手を頭の後ろで組んで真剣に考え始めた。
「それじゃ、何か寺本さんの話を聞かせてくださいよ。大学の話とか」
 その時玄関のベルが鳴った。
「あ、意外と早かったな」
 寺本はすくっと立ち上がって玄関に向かった。
「誰ですか?」
「中華のデリバリー頼んだんだ。おなかすいてるでしょ?」
「そんなぁ、すいてないですよ」
 そう言うと同時に、滝田の腹の虫が鳴いた。

「ジュリアードで修士取ったら、日本に帰って就職するって約束だったんだよ。それが何となくズルズルと。親もそのうち諦めた。それにしても、まさかこんなに長く住むことになるとは思わなかったな」
 滝田の兄も口調が柔らかい方だが、寺本は更に穏やかな口調で話す。
「何となく博士課程まで行っちゃって、就職しちゃって、やっと仕送り生活から脱出できた。ビザの問題とか面倒だったけど、永住権取ったから…」
「グリーンカード取ったんですか。それじゃアメリカ永住ですか?」
「できればそうしたいかな」
「いずれはアメリカ人になっちゃうとか」
「市民権を取るってこと?」
「ええ」
「さあ、そこまではどうかなぁ。グリーンカードがあれば、とりあえずここに住み続けることに問題はないし、日本は二重国籍を認めてないから、日本国籍は捨てなきゃならないし、それも惜しいし」
「それもそうですね。別にアメリカ人になったって得することはないし」
「そうだね。選挙権なんて要らないし」
「日本に帰るってこともあり得るんですか?」
「それも選択肢として残しておきたいな。いつ大学をクビになるか解らないしね。でも、グリーンカードを取って、大分気の持ちようが変わったかな。以前は当然いずれ帰国って頭だったけど、アメリカ永住っていう選択肢が加わって、何となく腰を落ち着かせて暮らすようになったっていうか。それまでは物もなるべく買わなかったし。ま、買うお金もなかったし」
「小学校から私立の音楽学校だもの、御実家はお金持ちなんでしょ?」
「そんなことないよ。父は普通のサラリーマンだし、仕送りは必要最低限で、最初の頃はお金がないから寮で自炊してたんだよ。今も気が向くとたまに作ってる」
「日本でもピアノはやっぱり…グランド?」
「一応ね。音大生だから」
「やっぱり大きなおうちなんだぁ」
「全然大きくないよ。普通の家だから、兄から、ピアノがうるさいって、よく怒鳴られてたんだ」
「お兄さんがいるんですか? ボクと同じだ。仲良しなんですか?」
「そうでもない。ピアノがうるさくて勉強できないって、大学から関西に行っちゃったし。そんなに僕のピアノから逃げたかったのかな」
「関西の大学かぁ。東京にいい大学が沢山あるのに、あえて関西か。どうしてなんでしょうね。古都巡りが好きとか」
「さあ、どうだろう。受けたのはみんな関西の大学だったんだよ。やっぱり兄は僕から逃げたのかな」
「でも男って、やっぱり親元離れて一人暮らししてみたいじゃないですか。そういうボクも今までずっと自宅から通ってたけど、今こうして一人暮らししてみると快適で快適で。もちろん不便なことも多いですけど。食事とか洗濯とか掃除とか」
「…兄は僕のピアノから逃げたのかな。それとも、僕から逃げたのかな」
「お兄さんは今どちらに?」
「もう結婚して子供が二人いるよ。うちの両親と一緒に住んでる。僕がこっちに来た直後に実家を二世帯に改築したんだ。っていうか、二世帯の話が決定したんで僕は逃げてきたんだよ。またピアノがうるさいって言われるからね」
「え? 逃げてきたんですか?」
 寺本が慌てて両手を振る。
「嘘、嘘、冗談だよ。たまたまだよ。卒業したら留学はしたいなって前から思ってたし」
「偶然だなあ。ボクの実家も二世帯にして、兄家族が一緒なんですよ。帰国したら一緒に住んでいいのかなあ。兄貴のところも子供二人になっちゃったし、狭い家だしな。ボクはアパートを借りるべきなのかなあ。ボク、多分もうすぐ帰国なんです」
「え? そうなの?」
 寺本が目を丸くして滝田を見た。
「はい。元々五年って言われて来てるから。今、後任を探してるんじゃないかな。麗しのニューヨークまで来て、恋のひとつもしないで帰るのか。ボク、日本に帰って見合い結婚するんです」
「ちょっと、ごめんね」
 寺本がバスルームに向かった。
 まずった。滝田は頭を抱えた。
 今の言い方では、まるでもう結婚が決まっているように聞こえたはずだ。誤解されたかもしれない。正確には「見合い結婚」ではなく「見合い」をするつもりだ。それが「結婚」に至るかどうかは別問題だ。
 滝田は自分の軽率さに落ち込んで頭を抱える。寺本は滝田より年上で独身だ。三十一歳の滝田が「自分はもう恋愛結婚は諦めた、見合いをするしかない」という風なことを言ったのだ。寺本はきっと気分を害しただろう。確かにマサハルの言うとおり、この無神経なキャラがすべてに災いしているのかもしれない。
 寺本はまだ戻らない。落ち着かない滝田は、中華のデリバリーについてきたおみくじクッキーに手を伸ばした。クッキーを二つに割ると中からおみくじの紙が出てきた。滝田はこのクッキーが好きだ。甘さが控えめで美味しいと思う。クッキーを食べながらおみくじを読むのも好きだ。そのおみくじには『あなたの言葉に誰かが傷付いています』と書いてあった。更に落ち込んだ。
「失礼。ええと…お見合い結婚するんだっけ?」
 トイレから戻って来た寺本がソファに座りながら言った。特に怒っている様子はない。
「いえ、『見合い結婚』じゃなくて『見合い』です。成功するかどうか解りません。その前に会ってくれる人がいるかどうか。寺本さんみたいにモテモテだったらその必要ないんだろうけど」
 それが滝田にできる精一杯のフォローだった。それにそれは事実でもあった。
「見合いっていうと、馬鹿にされるでしょ? でもね、悪くないんですよ。うちの兄、全然結婚する気なかったのに、祖母が無理矢理見合いさせたら、すぐに意気投合しちゃいましてね。今じゃすっかり仲良し夫婦ですよ。義姉は母方の祖母が理事長やってる幼稚園の先生だったんです。身近にああいう例があると、見合いもまんざら悪くないなあって思っちゃうんですよ。寺本さんのお兄さんは恋愛結婚ですか?」
「あの人は結婚が早かったね。大学時代のガールフレンドと卒業してすぐ結婚した。在学中に子供ができちゃったんだ」
「うわ、流行の先端じゃないですか」
「だから僕は高校生で叔父さんになっちゃったんだよ」
「叔父ちゃんって呼ばれてます?」
「いや、サトルちゃんとか呼ばれてるよ。滅多に会わないけどね。僕は別に叔父ちゃんでもよかったんだけど、義姉が気を遣ってたみたい」
「ボクもリューちゃんて呼ばれてます。リューじゃないな、ウーだな、ウーちゃん。まだはっきり発音できないんですよ。可愛いんですよね」
 財布の中の甥と姪の写真を寺本に見せようと思ったが、思いとどまった。他人の親戚の子など見て嬉しいはずがない。
「ボク、子供が好きで、大学の頃は時間があると祖母の幼稚園でよく子供と遊んでました。子供って、ホント、可愛いですよね」
 それから身を乗り出して言った。
「自分の遺伝子を持った子供、早く欲しいです。うわ、なんか生々しいですね」
 滝田がはしゃぐように笑うと、寺本は静かに笑った。
「寺本さんの理想の結婚って、どんな感じですか?」
「え?」
 滝田は期待する目で寺本の返答を待った。本当は自分が話したくて仕方ないのだ。理想の結婚像なら一晩でも語り尽くせないくらい頭に描いている。いつか誰かに聞いて貰いたいとも思っているのだが、塾の仲間にはできない。馬鹿にされるに決まっているからだ。寺本の理想の結婚話を聞き終わったら自分も思う存分話そう。そう思った。
 しばらく考えていた寺本が、やっと思い付いたように大きく息を吸ってから言った。
「僕は……喧嘩が嫌だな。喧嘩するほど仲がいいっていうけど、僕は好きな人とは喧嘩したくない。喧嘩しない人がいいな」
「寺本さんとなら喧嘩になりませんよ」
「そんなことないよ」
「追い掛けるのと、追い掛けられるの、どっちがいいですか?」
 寺本がまた返答に困った。
「…どうかなぁ。追い掛けられる…のが好きってこともないし…、追い掛けて…嫌われたら恐いし…」
「寺本さんに追い掛けられて嫌がる女の子はいませんよ」
「君はどっちなの?」
「ボクはいつも見当違いに追い掛けて振られてます。それに追い掛けてもらった事はないから、どっちがいいか解りません。はは」
 寺本も笑った。
「ボクはね、義理の姉みたいな人がいいんです」
「保母さん、だっけ? 優しそうだね」
「保母さんって保育園の先生のことなんです。幼稚園は『幼稚園教諭』っていうんです」
「…どう違うの?」
「保育園は厚生労働省の管轄で、幼稚園は文部科学省の管轄だから、基本的に目的が違うんです。『保育』か『教育』か、指導者に求められるものも違います。もっと解り易く言えば、保母さんはオムツを替えるのが上手だけど、幼稚園教諭は替えられなくてもなれます」
 寺本が軽く噴き出した。
「それは解り易いね」
「幼稚園にも時々いますけど、まだオムツしてる子。早生まれの年少さんとか。ボクも大学の頃、替えた事ありますよ。幸い男の子でした」
 それから寺本に近付き、声を潜めて言った。
「何か…可愛かったです、ツルツルで、完全に被ってるし」
「あ…そう…」
 身を乗り出した滝田に、寺本はややひるんだ様子になる。
「自分だって普段は被ってるくせに。ツルツルじゃないですけどね」
「…ちょっと失礼」
 寺本が席を立って、足早にまたバスルームへ向かった。
 ………またやってしまった。
 滝田はまた頭を抱えた。
 これでは大岩と同じではないか。すっかり調子に乗って何を言っているのか。寺本と会うのはこれで二度目だ。いくら自分では親しくなったつもりでも、礼儀というものがある。
「ごめんね、何度も。僕もちょっと飲み過ぎたみたいだ」
 寺本が戻って来た。
「いえ、すみませんでした。お下品でしたね。ごめんなさい。以後気を付けます」
「いや、別に男同士だもの、いいんじゃないの?」
「いいんですか?」
「結構好きだよ、そういう話」
 そう言って寺本は声を出して笑った。
「あの…義理のお姉さんって、どんな人なの?」
 寺本が遠慮がちに聞いてきた。
「義姉はですね、爽やかっていうか、竹を割ったような性格っていうか、ああいう人に背中を叩いてもらったら、きっと毎日元気が出るんじゃないかって」
 寺本は下を向いて微笑みながら言った。
「そっか」
 寺本が「それから?」と身を乗り出してくれたら話を続け易かったのだが、寺本はあまり興味がない様子だった。
「あのぉ、大きなお世話なんですけど…」
 遠慮がちに滝田が言った。
「どうして結婚しないのかって?」
 寺本は大きく目を見開いて笑顔で言った。
「いや、そういう訳じゃないんですけど。それに、今時三十代で独身なんて珍しくもないらしいし、でも、ボクの場合、結婚できない、だけど、寺本さんは、結婚しない、って感じがして」
「そんなことないよ。ただ、今の生活が快適でね」
 そう言いながら寺本は立ち上がってピアノの方へ歩いた。ピアノの蓋を開け、左手で蓋を押さえながら、右手だけで何か弾いている。小さい音だ。何の曲かは解らない。
「僕の爪ってさ、切っても切っても指の先より爪が出ちゃうんだよね。だから少し伸びただけでも爪の音がうるさくてね」
 わざと爪をたてて弾いているらしく、ピアノの音よりも爪の音の方が大きく聞こえる。コツコツという音が静かに部屋に響いた。
「いいよね、ここは。思いっ切りピアノが弾ける。うるさいって言われることもないし、朝から晩まで、一晩中でも、好きなだけピアノが弾ける。本当にいい。ここはいい」
 滝田の方に向き直ると、寺本は言った。
「泊まっていくでしょ? 沢山おしゃべりしようよ。でも、寝るときはちゃんと自分で歩いてベッドに行ってね。僕のパジャマ、貸すからね」



 その後、滝田は二度も寺本の家に泊まった。遊びに行く週末は泊まるのが当たり前になってしまった。三十を過ぎた男二人が毎週末こんなことをしていてよいものだろうか。そう思いながらも、つい呼ばれると行ってしまう。
 しかし、寺本が指示するように寝室のベッドで寝たことは一度もなかった。いつも酔ったままソファで寝てしまう。「歩いてベッドに行って」という寺本の声を夢の中で聞いたような記憶はあるのだが。寺本のパジャマを借りることもなく、いつも普段着のまま寝てしまっていた。シャワーを浴びることもない。
 元々お兄さん子だった滝田は兄ができたようで嬉しかった。ついでに、女の子を紹介してもらう約束までとりつけた。

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