射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 1-6

「何度もすみません」
 寺本がまた日本人の女の子を数人集められそうだと滝田に言った。また合コンを設定してくれるという。
 滝田はカリフォルニア・ロールを手でつまみながら寺本に言った。寺本の家に来る途中で、滝田がタコツボで買って来たのだ。寺本はアラスカ・ロールを箸でつまんだ。アラスカ・ロールにはサーモンが入っている。
「うちの大学には日本人の子が結構留学に来てるらしいんだ。日本人会みたいのができてるんだって。附属の語学学校の子が多いみたいだけど」
「はい、はい、大歓迎です」
「君は、どんな子がいいの?」
「何でもいいです…っていうと、何か軽薄な感じですけど、でも、ホント、誰でもいいんです、向こうさえボクでよければ。ボクには選ぶ権利なんてないから」
「そんな」
「いえ、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるって感じですかね」
「じゃあ、弾の数は多い方がいいね」
 そう言って寺本は笑った。
「ホントにいいんですか? 寺本さんはそれで」
「…え?」
 寺本が滝田を見た。
「もしそういう子の中で、寺本さんが気に入った子がいたら、遠慮なく…」
「そんな心配要らないよ。僕は本当に女の子には興味がないから」
「嫌いなんですか?」
「嫌いな訳じゃないよ。君にとっての男みたいなもんだよ。好きとか嫌いとか、そういう対象じゃない」
「ホントに、全く興味がないんですか?」
「全く」
「全く、全く?」
「全く、全く」
「どうしてなんだろう。野郎なんてどこがいいんですか?」
 寺本は答えようとしなかったが、滝田はしつこかった。
「ねえ、どうしてですか?」
 そしてついに根負けしたのか、寺本が重い口を開いた。
「…心理的には」
「心理的には?」
「精神的には、かな」
「はい」
 ごくっと唾を飲む。
「男の胸は落ち着く」
 ドキッとした。
「よく眠れる」
 あ、しかもベッドの中か。更にドキッとした。
「抱き締められると、胸がドキドキする、ずっと一緒に居たいと思う、帰って欲しくないと思う」
 滝田の胸の方がどんどんドキドキしてきた。
 しかし男の胸。何だかボディビルダーの筋骨隆々の胸のイメージがある。或いは胸毛や汗。ならば避けたい胸だ。
 女の子の胸はどうだろう。丸くて軟らかい、石鹸の香りの胸。顔をうずめた途端眠気を催し、目を閉じると、もう一瞬でレム睡眠に入ってしまいそうなふわふわな胸。大学の時、女性の大きな胸の谷間で圧死できたら本望だと半分本気で言っていた奴がいたが、その気持ちは解らないでもなかった。
「物理的には」
「あっ、はい…」
 亮子の丸い胸を思い出して、少し勃っていた。
「勃つ」
 滝田がむせた。
「大丈夫?」
「は、はい……、すみません、唾が鼻に入りました、大丈夫です。ティッシュ、もらいます」
 滝田はテーブルの上のティッシュボックスからティッシュを二枚続けて引っ張り、左右の小鼻を交互に押さえて鼻を噛んだ。
「こればっかりは自分じゃコントロールできないでしょ? 君だって男だもの、解るよね」
「ええ、まあ……正直な奴ですからね…」
 最後に鼻の穴をきれいに拭きながら答えた。少し勃ってしまった物が目立たないように脚を組んだ。
 そのとおりだ。それは自分では抑えようがない。女の人はいい。下半身がどんな状態であっても顔で平静を装えば問題はない。頭でどんなにいやらしい事を考えていても周りに気付かれることはない。電車でも、カバーをつければエロ本を読むことも可能だ。隣に覗かれないように細心の注意を払う必要はあるだろうが。しかし男はそうはいかない。体が反応してしまう。とは言うものの、電車やバスで堂々とスポーツ新聞の怪しいページやエロ雑誌のグラビアを見ている男は結構いる。ああいう奴らはどうしているのだろう。滝田にはできない。脚を組んだり、上着や鞄で隠したりすることはある程度可能だが、それでも隠し通せない時がある。空を見上げて大きく深呼吸するか、それで駄目ならトイレに駆け込むしかない。
「女の人じゃ勃たないんですか?」
 言うに事欠いて、馬鹿な事を聞いてしまった。聞いてどうするつもりだ。
「さあ、どうだろう。実際見たことないから。映画とかでは見るけど、つい目を逸らしちゃうね。別に気持ち悪いとかは思わないんだけど」
 寺本は首をひねった。
「…きれいだとは思うよ、美術館の彫刻とか絵とか。でも勃たない。逆に萎えるかな」
 滝田もさすがに彫刻や絵では勃たない。萎えはしないが、一応あれは芸術だと思っている。
「つい男の彫刻の方に目が行く」
 あ、そっちなら勃つのか。
「君だって、男のを見たら萎えるでしょ?」
 そう言って寺本は笑った。
 萎えるだろうか。それこそ「見たことないから解らない」だ。見たことがない訳ではない。そういう目で見たことがないというだけだ。自分のは毎日見ている。こんな物、見たくもないが毎日仕方なく見ている。自分のを見て興奮する男はいないだろうし、トイレでもあえて隣の奴を覗く事はない。友達と銭湯に行っても気にした事もない。見るとすれば、噂になっている奴の物くらいだ。
 男ならば多かれ少なかれ自分の物には愛着がある。他人と比較して、大きいのか小さいのか気になる時期がある。いわゆる思春期だ。クラスや仲間内では「やたらでかい」という評価を受ける奴が必ず出現した。そういう奴は一瞬でも尊敬してしまう。あっさり見せてくれる奴もいたし、かたくなに隠す奴もいた。体の大きさや態度の大きさとは必ずしも比例しないところが面白いと思ったものだ。クラスで全く目立たない大人しい奴がそういう評価を受けることもあった。そういう評価を受けた物はある程度じっくり見たことはある。しかしそれを見て自分の下半身が反応したことはない。確かに寺本の言うとおり、逆にショックで萎えたりした。
 大学生になってまで、鼻がでかいとあそこもでかいとか、でかいと将来出世するとか、根も葉もない噂が飛び交ったものだ。でかいからこの就職氷河期でも一流企業の内定が取れたんだなどと言われた奴もいた。その昔の軍隊の入隊審査では下半身も検査官に見せたという真偽のほどは解らない話を聞くが、今時の一般企業の面接で、そんなものを見せるはずがないではないか。滝田がそれを言うと、「鼻がでかいからだ」とか「いかにもでかそうだからだ」とか、いつまでも内定の決まらない奴がふて腐れてぼやいていた。
 やがてそんな意味のない事は卒業する。大きいから偉い訳じゃない。大きいから他人より秀でている訳ではない。そんな下らない事が、男はある程度の年齢にならないと解らないものらしい。
「でも、寺本さん、こっちに来て暮らし易くなったんじゃないですか? なんてったって本場アメリカ、ニューヨークですもん」
「まあね。親元離れて楽にはなったね。仲間も多いし、情報も豊富だし」
「堂々と手をつないで歩けたりとか」
「場所と時間帯に依るよね。でも、そう期待して来てはみたものの、人数が多い分、嫌う人も多くてね」
「ああ、前に言ってたリンチとか?」
「憎悪犯罪ってヤツだよね。言い掛かりっていうか、何の恨みもないのに単に気に入らないから殴ったり蹴ったりするみたいな」
 ヘイト・クライム。特定の人種や民族、宗教に対する差別と偏見から起こされる暴行などの犯罪である。最近では性的志向の違いへの憎悪、つまり同性愛者や性転換者への犯罪が急激に増していると聞く。
「例え暴漢からは身を守れても、法律からは身を守れないしね」
「何ですか、それ」
「ま、もう解決したからいいんだけど、今年まで男同士でセックスすると逮捕されちゃう州があったんだよ」
「ああ、それ、新聞で読みましたよ。ソドミー法ってやつでしょ?」
 そのニュースを読んだ時、同性愛者ではない滝田でさえ、同性愛を禁止する法律などまるで時代錯誤だと思ったものだ。
「犯罪者扱いだよ。でなければ病人扱いだ。昔は精神科で治療されたんだってさ」
 寺本が寂しそうに笑った。
「でも、やっぱり病気なのかな。『変態』とか言われてさ」
 滝田は何と答えたらいいのか解らず下を向いた。滝田も今まで酔っ払って抱き付いてくる男友達を『変態』呼ばわりしていたものだ。
「でもそしたら一病息災だ。お蔭で他の事は順調だよ。毎日楽しい。なんだかんだ言って、僕も好き放題してるし」
「………………」
 好き放題している寺本。滝田はまた少しドキッとした。
「もし病気なら、僕は絶対先天性だね。女の子が恋愛の対象になったことはないもの」
「最初から男の人が好きなんですか?」
「そうだね。それが恋なのかは意識はしなかったけど、小学校の頃から憧れの先輩は男だったし」
「初恋の人も?」
「多分」
「その合唱の先生?」
「その先生は好きっていうのとは違うかな。実は最近思うんだ、兄だったのかなって」
「………え?」
 お兄さんが初恋の人?
 滝田は戸惑う。
「性的に意識したのは、多分兄が最初だ」
「…あの、ボクに似てるお兄さんですよね」
「あ、うん、そう。兄と僕は六つも離れてるんだ」
「うわ、うちと同じだ」
 大人になっても六つの違いは大きいが、子供の頃の六つはかなりの違いである。中一と小一、大学生と中一となると、まるで大人と子供である。
「僕たち、小さい時は仲良しでね。僕はいつも兄の後を追い掛けてた」
「あ、ボクもです」
「兄はね」



 寺本の兄は、昔から年の離れた弟をとても可愛がってくれた。母はよく、兄が寺本の面倒をよく見てくれたので、楽をさせて貰ったと笑って言っていた。風呂も兄と一緒で、同じ布団で寝ることもしばしばあった。雷の鳴る晩は、寺本は必ず兄の布団に潜り込んでいたし、恐いテレビ番組を観た晩も必ず兄と一緒に寝た。しかしそれが許されたのも兄が中三の夏を迎える頃までだった。寺本は小三になっていた。
 学区の公立中学に通っていた兄は進学校の高校を志望していた。夏休み前にバスケットボール部を引退し、その後は受験勉強に専念した。夜寝る時間も遅くなった。
 ある日雷が鳴って、寺本が兄の部屋のベッドに潜り込もうとすると、母親から「邪魔しないであげて」と言われてしまった。「あなたは音大の附属に入っちゃったけど、お兄ちゃんは深刻なのよ」と言われ、よく意味が解らなかったが、とにかく兄の邪魔をしてはいけないということだけは解った。
 それ以来どんなに大きな雷が鳴っても、寺本は自分の部屋のベッドで布団を被って耳をふさいで寝るようになった。母親が「ママの布団に来てもいいのよ」と言ってくれたが、それはさすがにもう恥ずかしい年齢になっていた。母親と一緒では恥ずかしいのに、兄と一緒なら恥ずかしくないというのも、思えばおかしな話なのだが。
 無事第一志望の高校に合格した後の兄は、もうすっかり大人だった。高校生と言えば見た目も大人だ。背が高かった兄は特にもうすっかり立派な大人に見え、小学生の弟と一緒に遊んでくれることは皆無となっていた。

 それが始まったのは、寺本が小五になった頃だ。寺本の兄は高二の血気盛んな年頃で、お嬢様高校に通うガールフレンドができただのなんだのと騒いでいた頃だった。
 寺本との事は、兄としては本当に軽い気晴らしのつもりだったのだろう。高二の男子にとって小五の弟は、まだまだ何も知らない子供であっただろうし、軽い性のはけ口としては恰好の相手だったのかもしれない。小五にもなれば普通解りそうなものだが、本当にその頃の寺本には解らなかったのだ。歳の割には幼い子供で、体も小さな小学生だった。確か百四十センチもなかったと思う。身長が伸びたのは中学に入ってからだ。小学生の頃はクラスでも前から数えた方が早いくらいで、色が白くて細かったせいもあり、よく年齢よりも幼く見られた。
 兄が初めて来た夜。両親は階下で寝静まり、寺本も深い眠りに落ちていた。寺本が夜中に何か気配を感じて目を覚ますと、ベッドの中に兄がいた。
 兄はしばらくベッドの中で静かに寺本を見ていた。雷は鳴っていなかったが、小五の寺本は大好きな兄が部屋に来てくれたことをとても嬉しく思った。昔は優しかった兄が、その頃から「ピアノがうるさい」と不機嫌な声を出すことが多くなっていたので、ベッドに来てくれたことはこの上ない光栄であった。
 半分眠りの中にいた寺本は兄に抱き付き、兄はしばらく動かずにいた。それから寺本のパジャマのズボンの中に手を入れた。くすぐったかった。兄の声が聞こえた。
《悟って、まだ子供なんだね》
 何が起きているのか解らないまま、その日は眠りに就いた。下半身を触られたままでも熟睡できる、色気よりも眠気の勝つ年頃だったのだ。
 翌朝、目を覚ますと部屋に兄はおらず、寺本はいつも通り寝ぼけたままトイレに行き、制服に着替え鞄を持って階段を走り下りた。兄はもう既に朝食の席にいた。
 まず兄に「おはよう」と言った。次にトーストにバターを塗る母親に「おはよう」と言った。父親は出勤が早く出張も多かったので、たいていの朝は不在だった。いつもと変わらない朝の風景であった。兄も寺本に「おはよう」と言い、その直後に「ご馳走さま」と席を立った。兄は「今日は帰りに図書館で勉強してくるから遅くなる」と玄関で母に言い残し家を出た。 寺本は本当に、午後になるまで思い出さなかったのだ。昼食が終わってトイレに行き、ズボンのファスナーの間から自分の物を出し、それを見るまで。
 それを見た時、前の晩の妙な感触を急に思い出した。それは特にいつもと変わった様子はない。赤く腫れている訳でもなく特に大きくなっている訳でもない。
 前の晩の事は夢だったような気がしないでもない。しかし例え夢でなかったとしても、夜中に兄が部屋にやってきて寺本の下半身を軽く触った。それだけの事である。小さな時に兄とよくやった「くすぐりごっこ」と似たようなものだ。不快感もなかった。
 その後も何度か兄はやって来た。ただ最初の頃のように寺本の下半身を触って終わりという訳ではなかった。
 兄は自分の股間を寺本に握らせるようになった。
《いい? こうするんだよ。お兄ちゃんの言うとおりにして》
 自分の手を寺本の手に当てた。優しい口調の兄だった。低い声でささやくように言った。
《汚くないんだよ。ちゃんとお風呂に入ったんだから》
 寺本は黙ってうなずいた。ゲームの操作法を教わるように、真剣に兄の指示に従った。クラスの友達の一人が、自分でこんなようなことをしていると自慢していたのを思い出した。クラスのみんなは笑った。
《最初はゆっくりでいいから》
 兄の手はだんだんと速くなった。
《悪い事じゃないんだよ。悟は何にも悪い事してないんだよ。中学に入れば、みんなすることなんだ》
 二人の下半身は布団に埋もれていて寺本には何も見えず、手の感触しか解らなかった。
《も…もう…いいよ…》
 しばらくすると兄は寺本の手を離した。
《後は、自分でするから》
 兄はそう言って自分の部屋に戻って行った。兄が去った後、寺本は自分の右手をしばらくの間見つめた。何が起こったのかよく解らないまま急速に眠気が襲ってきて、いつ眠りに付いたのか解らないまま次の日の朝を迎えた。
 そのうち寺本は要領をつかんで、一人でさせられるようになった。
 しかし兄がやってくるのはそれほど頻繁ではなかった。一ケ月に一度くらいだっただろうか。
 小六になった寺本は、事の次第が解るようになっていた。クラスの男子も女の子に興味を抱くようになっており、彼らは体育の授業を休む女の子を見て、ひそひそとほくそ笑むようになってきていた。
 寺本は子供なりに得体の知れない罪悪感を感じてはいたが、習慣化した兄の訪問を今更やめさせる勇気はなかった。むしろ、その頃には既に寺本自身がそれを望むようになっていたのだ。
 ある晩、兄は寺本のベッドの上に仰向けに寝転び、布団を掛けずにパジャマのズボンを脱いだ。
 その大きな物に寺本は言葉を失った。数年前まで一緒に風呂に入っていたが、兄のそれを気にしたことはなかった。不在がちの父親とは一緒に風呂に入った記憶はない。大人のそれを見たのは、初めてといってもよかったかもしれない。胸が高鳴った。
 兄の隣でへたりとベッドに座っていた寺本は、黙っていつもどおりの仕事を始めた。
 兄が目を閉じた。苦しそうな顔になった。
《もっと、もっと速くして》
 そして兄が軽いうめき声を上げると、兄の先端から白い液体が飛び出した。あまりの驚きに、寺本は小さく「うわっ」と叫んだ。それと同時に離そうとした右手の手首をつかんで兄が言った。
《まだ止めちゃ駄目だ、しばらく、そのまま…》
 何が何だか解らなかった。
 液体はその後もしばらく出続け、動く寺本の右手を汚し、刈ったばかりの芝生のような青臭い匂いが漂ってきた。それは寺本にとって嫌な匂いではなかった。
 兄に指示されるままに、寺本はそれをティッシュで拭き取った。
《…手、洗面所で洗っておいでよ。お母さんに見つからないようにね》
 その後は、兄に言われる前に寺本はティッシュを使った。汚れたティッシュは兄が持ち帰り、シーツが汚れた時は兄がこっそり洗濯機に持って行ってくれた。
 そして一夜明ければ、何事もなかったようないつもの朝の風景だ。昼間その話題を出すのは反則のような気がしたし、話題にしたことで兄がもう来てくれなくなることが何よりも恐かった。
 高三の兄は受験生だった。
 毎晩遅くまで受験勉強をする兄を気遣って、寺本はピアノの練習はなるべく兄が学校から帰る前、そして兄が塾に行っている間、図書館で勉強をしている間などに済ませるようにしていた。兄に嫌われるのが恐かったからだ。
 それ故、大学受験を終えた兄が関西に行くことを知った時のショックは大きかった。最後の最後まで合格が危ぶまれた第一志望の国立大学に合格できたことで、両親も兄も大喜びだった。悲しんでいるのは寺本だけだった。
 合格発表が終わってから、兄は一度も寺本の部屋へは来なかった。
 夕食の席で寺本が兄に聞いた。
《どうして東京の大学じゃないの?》
 兄が答えた。
《お兄ちゃん、大学入ったらもっと勉強して公認会計士目指すんだ。こういつもピアノが鳴ってたんじゃ、ちょっとね》
 母親が少し怒った顔になった。
《今までさんざん悟に気を遣わせておいて、それはないんじゃないの?》
《あ、そうだった。ごめんね、悟。冗談だよ》
 寺本は黙って聞いていた。
 春休み中、兄はほとんど家にいなかった。車の教習所に通い、間もなく離れ離れになる高校の仲間たちと連日会っていた。高二の頃付き合っていたガールフレンドとはその後どうなったのかは知らない。
 マンションの契約やら買い物やらで母が関西に行ってしまって不在の日は、中目黒の父方の祖父が泊まりに来てくれた。祖母もいる祖父の家に泊まりに行ってもよかったのだが、祖父は「悟のピアノが聴きたい」と寺本の家まで来る事を望んだ。大好きな祖父だった。いつも寺本を膝の上に載せてくれた。学校のこと、ピアノのこと、寺本は膝の上で一生懸命祖父に話し、夜は祖父と同じ布団で寝た。
 やがて兄が関西に引っ越す日を迎えた。両親も入学式に列席するため同行するので、寺本は祖父と一緒に新幹線ホームで家族を見送った。
(逃げるの? お兄ちゃん、僕から逃げるの?)
 東京駅から新幹線に乗る兄の背中を見ながら、寺本は声にならない声を発した。黙って祖父のコートの裾をずっと握り締め泣いている寺本に、父が笑って言った。
《悟は本当にお兄ちゃんが好きなんだな》
 家族を見送った後、家に着くまでずっと泣いていた。家に着いても、祖父に抱き付いてずっと泣いていた。夕食も取らずに泣いていた。祖父は黙って抱き締めてくれた。

「そんなひどい事されたのに、好きだったんですか?」
「やっぱり、ひどいかな…」
「ひどいですよ。それに、それじゃ愛とか恋とかとは違うでしょ」
 滝田の声には少し怒りがこもっている。
「恋だよ」
「………」
「違うのかな。でも、僕自身が、望んでしてたことなんだよ」

 中学の入学式を翌日に控えた寺本は、兄が何度も果てたベッドの上で、生まれて初めて自分で自分を慰めた。兄に教えて貰った通りにした。兄を思いながらした。
 すると被った布団の中はあの芝生の青臭い匂いになり、兄が近くに居るような錯覚を起こした。同時にこれは兄特有の匂いだった訳ではなく、自分自身からもこの匂いが発せられるのだということを初めて知った。それを知ると、次の日も、また兄に会いたくて、兄と同じ匂いを出した。次の日も、また次の日も。

 話し終えるとしばらく寺本は黙っていた。
 滝田には解る。弟というのは兄が大好きなのだ。弟にとって兄とは絶対的な存在なのだ。寺本の兄はそんな弟の服従心を利用したのだ。ただ顔をしかめることしか、滝田にはできなかった。
「…そんなこと…ボクに話してよかったんでしょうか」
「駄目だったかなぁ」
「聞いちゃいけなかったんじゃないかって……」
「今まで誰にも話したことがなかったな。君には何でも話しちゃうんだよね。どうしてかな。それに誰かに聞いて欲しかったっていうのもある」
「お兄さんを……恨んでますか?」
「恨む?」
「え…あ…また…すみません。いや、そういうつもりじゃなくて…もしかしたら、寺本さんがこうなったのは…その…お兄さんが原因だったのかなって」
「でも、あんなことがあったって、普通の男の子だったら、思春期になればちゃんと女の子に興味を持ち始めると思うんだ。兄だって僕にあんなことさせたけど、ちゃんと結婚した」
「だってお兄さんは」
(加害者だ)
 しかし滝田はそれを口には出せなかった。
 兄はそれでいい。あふれ出る高校生の生理。彼が当時のガールフレンドとどの程度の付き合いをしていたのかは知る由もないが、その彼女では満たすことが許されない欲望を、弟にぶつけていただけじゃないか。
「それに、あんなのはどこの家庭でもあることなのかな。男同士の兄弟なら、成長の一過程なのかな。君のところはどうだった?」
 滝田はぶるんぶるんと何度も首を横に振った。
「ないですよ、ない、絶対ない、普通ないと思います。ええと、多分…」
 あるのだろうか。逆に心配になってきた。
「そっか。でもやっぱり僕の場合先天性のものなんだよ。兄が原因じゃない」
 テーブルの上のビールの空き缶を片付けながら寺本が言った。
「最近思うんだ。こう育ったからこうなった、ああ育ったからああなったって、そういうの、あんまり関係ないんじゃないかって。人間、九割方は持って生まれたものなんじゃないかって」
 夜も更けてきた。滝田の瞼も門限だ。
「今となっては、兄の事はもうどうでもいいんだ。今、僕は仕事も楽しいし、健康だし、良い友人にも恵まれてる。それだけで、もう十分幸せなんだよ」
 空き缶を持って、キッチンへ入っていった。

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テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

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