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射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 1-12

 次の日の夕方、デビーたちに会うために緑のカムリでバーに向かった。
 道路に面した店の表側は全面ガラス張りだ。ガラス越しに見る店内はかなり混雑している。寺本は裏手にある駐車場に車を停めた。
 車を降りると寺本が手を差し出した。滝田も右手を差し出し、二人は手をつないで表の入り口から中に入った。
 入り口近くの人だかりを縫うように二人は薄暗い店内の奥へと進んで行った。入り口周辺で立ったままビール片手に談笑する連中の八割は男性だ。ピン・ボール・マシンの明かりと煙草の火がやたらに目立つ。耳をつんざくようなボリュームで音楽が流れている。曲に合わせて踊っている男同士のカップルもいる。
 辺りを見回しながら滝田が聞いた。
「ここって、その…昔、通ってたっていう…その…専用の…あの…そういうバー?」
「いや、それはウエスト・ビレッジにあるんだ。バーガーが美味しいんだよ。ここは普通のバー」
「そこ、今でも行ってるの?」
「ううん、ここからマンハッタンまで行くのは面倒だからね。あの辺りはもうすっかりご無沙汰だ」
「サトル」
 突然後ろから呼び止められ、二人が振り向くと、薄暗がりの中、黒いタンクトップを着たグリズリーが立っていた。
 …いや、違う。熊のように大きな白人の男だ。
 仁王立ちという言葉が滝田の頭に浮かんだ。これが店内ではなく屋外の暗闇であったら、きっと肝を潰していただろう。
「ヒール?」
 寺本が笑顔で答えた。
 口髭にあご髭、顔中毛だらけだ。体にも至るところにこげ茶色の毛が生えていて、長い縮れた髪を後ろでひとつに束ねている。寺本を見つめていたその男は、隣の滝田に視線を移した。そしてその視線が下がり、二人のつないだ手で止まった。
「ヒール、ヒールじゃないか。久し振りだね。びっくりしたよ」
 寺本は驚いた表情で、嬉しそうにその男の腕を右手で叩いた。
「ずっと西に行ってたんだ。元気だったか?」
 聞き取り難いくぐもった声だ。動物のうなり声にも聞こえる。
「まあね。君も元気そうだね」
 滝田は神妙な顔でうつむき加減に二人を見つめた。
「彼、リュージだよ。付き合ってるんだ」
 するとヒールは一瞬眉を潜め、滝田を真っ直ぐに見下ろした。
「…ハイ、ルージ」
 アメリカ人は語頭の『リュー』がうまく発音できないことが多い。たいてい『ルユー』か『ルー』になる。
「彼、ヒールだよ。付き合ってたんだ」
 少し驚いた。でもはっきり言って貰った方がいい。下手に隠して後で解るよりいい。寺本のそんなはっきりしたところは嫌いではない。
「こんにちは」
 焦った滝田は思わず日本式にお辞儀をしてしまった。
「…そうか、付き合ってるのか」
 寺本を前に、その大男はまるで借りてきた猫のようだった。
「ルージ」
「あ…はい」
「サトルのこと、大事にしてくれよ」
「…はい」
「大事にしてもらえよ」
 凄みはあるが、気味が悪いほど物静かだ。
「…は、はい」
 はいと答えることしかできなかった。
「友達を待たせてるんだ。またね、ヒール」
 右手を軽く上げてヒールから離れた寺本は、滝田の手を握ってバーのカウンターの前まで来た。ここまで来ると丁度良い具合に音楽のボリュームが下がった。
「あの人? ほら、寮で、腰が抜けちゃったとかいう…」
「いや、違うよ。それは別の男」
「あ、そ…」
「ヒールにもよく腰を抜かされたけどね。バドワイザーでいい? ここ、キリンもアサヒもないんだ」
「あ、うん…」
 寺本はカウンター越しにビールを二つ注文した。それから高い椅子に腰掛け、カウンターに頬杖をついた。左手は滝田の手を握ったままだ。
 滝田は立ったまま後ろから椅子に触れた寺本の細い腰を見つめた。いろんな男に抜かされた腰を見つめた。
「ヒールって、プロレスの?」
 滝田が聞くと、寺本が喜々として振り向いた。
「あ、よく解るね。そう、プロレスの悪役の方。本当に久し振りだよ。何年振りだろう」
「彼、プロレスラーなの?」
「あは、違うよ。彼はね、ああ見えても名の知れた彫刻家なんだ。よく見ると可愛い顔してるんだよ。会った頃はね、みんなに自分のこと、ベイブって呼ばせてたんだ。おれは童顔だって。ベビーフェイスって解る?」
「プロレスの善玉の方でしょ?」
「君もプロレス好きだったんだ」
「そりゃ男なら、ある程度はね」
「それで僕がね、君はベイブじゃないよ、ヒールだよって言ったんだ。あ、別に悪い意味じゃないよ。ほら、悪役レスラーって、たいていホントはいい奴だったりするし。それからみんなヒールって呼ぶようになったんだ。そっちの方が合ってるでしょ?」
「本当の名前は何なの?」
 すると寺本はキョトンとして一瞬黙った後、首を傾げて言った。
「…何だっけな。忘れちゃった」
 滝田が入り口の方を見やると、遠くにヒールの大きな後姿が見えた。頭ひとつ飛び出している感じだ。
「すごい迫力だね。生肉とか食べそうだ。なんか、ブルーザー・ブロディみたい」
 滝田が小さくつぶやいた。
「君もそう思う?」
「え?」
「ヒールはブロディによく似てる。ブロディにはあんな体毛はなかったけどね。宗教画のキリストのようなきれいな顔をしてた。彼の試合、よく観に行ったよ。場外乱闘で目の前まで来たこともあった。猪木とのタイトルマッチも行ったし」
「観に行ってたんだね。ボクはテレビ止まりだったな」
「彼のテーマ曲はベートーベンの第五だったんだ。今でも第五を聴く度に思い出すよ」
 こんなに興奮した寺本を見たのは初めてだ。
「寺本さん、そんなにプロレス好きだったんだ。意外だなぁ」
「大好きだよ。男らしいからね」
「………あ、そういうことね…」
「やたらのビデオより興奮するよ」
 …そういうことか。肩から力が抜けた。
「スタン・ハンセンもよかったけど、やっぱりブロディが一番だよね。強いし、逞しいし、セクシーだし、彼に仰向けにされてカウント・スリー取られたら、すごく興奮しちゃうだろうね」
 滝田に向かってこういうことを言う時は、寺本は何を考えているのだろう。単なる冗談なのだろうか。あまり良い気持ちはしない。
「でも死んじゃったね、ブロディ」
「そうだね。僕が大学一年の時だ。泣いちゃったよ」
 寺本はそう言って注文したビール二本を受け取り、ポケットから出した札を女性の店員に渡して奥のテーブルへと歩き出した。
「ヒールとはね、ボブの家のパーティで知り合ったんだ。それで、いきなり彫刻のモデルになってくれって言われて」
「ええ? 彫刻のモデルって裸でしょ?」
「結構いいお金くれたんだ。バイトだよ。あ、誤解しないでね。体なんて売ってないよ。モデルになったのをきっかけに付き合うようになったんだ。ナイス・ガイだよ、彼は」
 こうあっさり話して貰うと嫉妬している間もない。寺本は渡辺以上に自分の過去にも相手の過去にもこだわらないのかもしれない。滝田は自分が未熟に思えた。
「ハイ、バディ!」
 大きな声のする方向を見ると、奥のテーブルで五、六名の男女がこちらを向いて手を振っている。寺本は右手に瓶ビールを二本持って、左手は滝田とつないでいるので手は振れない。絡み合った二人の指にみんなの視線が行ったような気がした。
「遅いぞ、レディ・アンド・トランプ」
 先程の大声の主のスキンヘッドの男が椅子に仰け反り右手を高く上げて言った。レディとトランプとは、ディズニー映画『わんわん物語』の主人公の犬二匹の名前である。
 寺本はビールをテーブルに置くと、男の高く上げた手に自分の右手を思い切りぶつけた。
「元気だった?」
「これまた随分と大きなコッカースパニエルだな」
 男は滝田を見上げて言った。
「ひどいな。僕はトランプかい?」
「そうだよ。ワイルドなサトルがイタイケな小鳩ちゃんをたぶらかしたって、ケイトが言ってたぜ」
「あたし、そんなこと言ってないわよ。ストレートの子だって言っただけよ」
「それだけで十分たぶらかしじゃないか」
「あなた、ヒトのこと言えるの?」
「だって俺は雑食だけどさ、待ち受け専門のこいつがさ、自分からストレートを食っちゃうとはなぁ」
 男はすくっと立ち上がって、滝田に右手を差し出した。寺本と同じくらいの背丈だ。冬だというのに白いタンクトップにホットパンツをはいているが、足にはきちんと白い靴下をはいて短いブーツを履いている。筋肉質で、手も足も大きな男だ。
「やあ、小鳩ちゃん。俺はボブ。サトルから話は聞いてる。会いたいと思ってたんだ。よろしくな」
「あ、こんにちは。リュージです」
 滝田がぎこちなく差し出した右手をしっかりと握り締めた。頭は剃ってあるが近くで見ると品のいい顔立ちをしている。目は空のように青い。
「君は幸せだよ。俺はサトルにはあっさり振られちゃったからね」
「え? そうなの?」
 滝田は驚いて寺本を見た。寺本は黙って笑っている。
「ゲイだったら、どの男も一度はサトルにトライしてるわ。あなたは幸せよ。サトルの方が夢中なんだから」
 先程ケイトと呼ばれた赤毛の短髪の女性が言った。それから隣の茶色い長髪の美しい女性の肩を抱いた。
「私はケイトよ。よろしくね。こっちは恋人のジェネヴィ。すごい美人でしょ? うちの雑誌の専属モデルなのよ。今年の始めにパリから来たの」
「ボンジュール、小鳩ちゃん」
 滝田が女性二人と握手をしていると、寺本が両手を大きく振ってみんなに言った。
「ちょっと待った待った。まずは彼をみんなに紹介するから。彼がリュージだよ。僕の大事な恋人。頼むからいじめないでくれよ」
「ハーイ、ルージ」
 みながバラバラに挨拶した。滝田は顔が赤くなるのを感じた。寺本は滝田の方に向き直って、仲間達に手を差し出した。
「ここにいる人たちはね、いろいろな人たちなんだ。大学の友達、ここで知り合った友達、友達の友達、性癖もいろいろさ。こっちから、彼女がデボラ・カー、デビーだよ」
「あ」
 寺本の家の暖炉の上の顔だ。そばかすだらけの小柄でぽっちゃりとした女性だ。薄茶色の髪を後頭部でお団子にしている。
 立ち上がったデビーと寺本は抱き合って、お互いの頬にキスをした。滝田はこのアメリカ式の挨拶にはどうしても慣れることができない。見ているだけで恥ずかしくなってしまう。
 それからデビーは滝田の方を向いた。キスされるかと思って身構えたが、彼女は右手を差し出した。茶緑のきれいな瞳だ
「私はバリバリの男好きよ。元気だった?」
「こんにちは。この前はどうも」
「可愛いじゃない。イメージ通りよ」
 本当にイメージ通りだったかどうかは疑わしい。自分でも解っている。このモサッとした猫背の男はどう見ても寺本の「大事な恋人」には見えない。
 それから寺本は友人を一人一人滝田に紹介してくれた。みな気さくないい人たちで、その都度滝田は握手をし、寺本は抱擁し合った。日本では例え家族でも体が触れ合うことはまずない。誰かを紹介された時でも、お辞儀をするだけで握手さえすることはないのが普通だろう。着痩せする寺本のシャツの下に、実は硬い筋肉が隠されていることを、この仲間はずっと前から知っているのだ。
 寺本は、日本語を話す時よりも英語を話す時の方が少しトーンが低くなる。日本語の語尾も柔らかいが、英語の語尾は更に柔らかく聞こえる。
 滝田も会話に加わりながら、話が込み入ってくると寺本に通訳して貰い、緊張しながらも楽しい時を過ごした。寺本にまた一歩近付けたような気がして嬉しかった。
 テーブルの下の寺本の膝の上で、二人はずっと指を絡ませていた。それはみんな解っているようで、滝田は落ち着かない気持ちを抑えながら、不自然にわざと気にしない振りをしていた。
 寺本の車で来ていることで気が緩んだのか、やがて滝田に酔いが回ってきて、隣の寺本の耳元に小声でささやいた。
「あの、ちょっと、トイレ…」
「そこの階段を下りた所を左だよ。一緒に行こうか?」
「一人で行けるよ」
 デビーがクスッと笑った。寺本は絡めた指に力を入れて、言い聞かせるように言った。
「帰ってくる時は右に曲がるんだよ。左に曲がると迷子になるよ。大丈夫?」
 滝田は苦笑いをして、クスクスと笑うデビーを一瞥した後、うなずきながら絡まった指を静かに離した。
「あらまあ」
 ジェネヴィが呆れた顔で叫ぶ。
「ルージはサトルの赤ちゃんなのね」
 そう言って、デビーと顔を見合わせ笑った。

 店の暗さに比べてトイレはかなり明るかった。それに涼しい。滝田は大きく深呼吸していつものように目をつぶった。
 疲れた。一度にあんなに沢山の人を紹介されたのはこちらに来て初めてだ。しかも会話について行くだけで精一杯だ。
 英語は昔から得意だったし、こっちに来てから少し語学学校に通ったお蔭で、普通に会話する程度なら不自由はしない。しかし、所詮習った英語だ。少し気を緩めると解らなくなる。
 ゆっくりとファスナーを下ろしてするべきことをした。
 目を開けた。
 明るいトイレに立ってしばらく頭と下半身を冷やした。ひんやりと冷たくて気持ちが良い。タコツボのトイレで、寺本の隣で、アルコールを抜いた時の事を思い出した。
 頭を整理してみる。
 就職がなかなか決まらず、先輩に誘われ、いずれ独立するつもりで塾に就職した。しかし独立話は泡と散った。しかし、先輩に誘われなければ塾講師になることもなく、塾講師にならなければニューヨークに来ることもなかった。そしてニューヨークに来なければ渡辺の結婚式に行くこともなく、結婚式に行かなければ寺本にも会えなかった。
 今までの苦労はすべて、今この時へと続く長い階段だったのか。
 人の運命なんて解らないものだ。寺本に会わなければ、今こうしてこの涼しいトイレに立っていることもない。
 そうぼんやり考えていると、ドアの開く音がして隣に大きな男が立った。滝田より頭一つ大きいような気がする。しかも横にもかなり大きい男で、滝田の肩に二の腕がぶつかりそうだ。アメリカにはこのような大柄な男が多いので、滝田は日本にいる時よりもはるかに暮らし易い。映画館でも気を遣って一番後ろの席に座る必要はなく、電車でも脚を比較的楽に伸ばせるのだ。
 そんな事を考えながら横目で隣の男を見た。
 …ヒールだ。
 彼はこちらに気付いていない。声を掛けてもいいが、このまま気付かなければ気付かないままの方がいい。寺本の昔の恋人だと紹介されて先程は気にしない素振りは見せたが、実は内心あまり穏やかではない。この大柄な芸術家と比べたら、自分は全く取るに足らないつまらない男である。
 寺本はこの男とどんな夜を過ごしたのだろう。仰向けにされて、カウント・スリーを取られ、そして寺本はどんな顔をしたのだろう。それを想像する勇気もなく、努めて何も考えないようにした。
 急にこの場を去るのも気が引けて、そっとヒールの右肩に目をやった。刺青がしてある。漢字だ。『悟』という文字だ。慌てて目を逸らすと、
「日本人の刺青師に彫ってもらったんだ」
 激しい脈動を感じながら、恐る恐るヒールの顔を見た。目が合った。薄い茶色の瞳だ。彫りが深く鼻筋が真っ直ぐに通っていて、確かにブロディに似ている。
「あいつ、朝するの好きだろ」
 そう言われて、また目を逸らす。
「蒼白い顔が、みるみるピンクに染まってってさ、たまらないよ」
 滝田は軽く会釈してファスナーを上げ、早足でその場を離れた。
「体中、性感帯だ。つま先なめただけで、いっちゃったこともあるんだぜ」
 声が低すぎて何を言っているのか解らない。解ろうともしていないので余計解らない。
 手も洗わず、走ってトイレを出ようとした時だった。
「彫刻のモデルをやらないか? 金は払う」
 ヒールが後ろを向いたまま低い声で唸った。滝田が驚いて振り向くと、ヒールはレザーパンツのファスナーを下ろしたままゆっくりと体をこちらに向けた。
「ヘソの下にサトルのフルネームが彫ってあるんだ。近くに来いよ。よく見える」
 体が動かない。
 ヒールは右手の平を上に向け、人差し指で滝田を呼んだ。
 心臓が破裂するのではないかというくらい激しく音を立てた。ショッピングモールの駐車場で、拳銃を持った大男に殺されるのではないか、そう思った時よりも大きな恐怖だ。
 滝田はやっとの思いでトイレのドアを突き破るように飛び出した。トイレから出ると、ずっと息を止めていた事に気付き、慌てて息を吐いた。息切れがした。
 トイレから出たら右に曲がる。それは憶えていたが、こんな状態のままテーブルに戻る訳にはいかない。かといってここにいたらヒールが出てくる。どうしたらいいのか。額を脂汗が流れた。
 そして思わず隣の女子トイレに入ってしまった。中には誰もいない。洗面台の前でしゃがみ込み、息を整えた。
 何だったのだろう。今のは、いったい何だったのだろう。
 息が整った頃に、黒人の太った中年女性がドアを開けて入ってきた。入った瞬間、うずくまる滝田を見て小さく「キャッ」と叫んだが、恐らく真っ青であろう滝田の上げた顔を見て、幸いその女性は不審そうな顔をしながらも「隣よ、ベイビー」と言いながら個室に入って行ってくれた。
 まだ少し荒い息を落ち着かせるために胸を押さえながら女性用トイレを出てテーブルに戻ると、ケイトが滝田の背中を叩いて言った。
「遅いわよ、ルージ」
 滝田はケイトに向かってうなずくと、寺本の後ろに立って日本語で言った。
「もう帰ろうよ」
 日本語の解らない者たちがいる場で、日本語で会話するのは失礼だ。ある意味内緒話をしているようで不快に思う者もいる。それは解っている。ここでは常識だ。しかし滝田は日本語で話し続けた。英語で話す余裕はなかった。
「ごめん、ちょっと飲み過ぎた。ここで寝ちゃうわけにいかないから、悪いんだけど……」
「解った」
 寺本も日本語で答え、友達の方に向き直るとおどけて言った。
「小鳩ちゃんの門限なんでもう帰るよ。今日は楽しかった」
 デビーがウィスキーのグラスを上げて言った。
「こっちもよ。それじゃ、大晦日、うちで待ってるから。みんなでカウントダウンよ」
 寺本は別れ際にも一人一人と頬を重ね合って挨拶をしている。こうしている間にもヒールが後を追ってくるのではないかと思うと気が気ではない。寺本がポケットから札を数枚出してテーブルの中央に置いた。
 二人は手をつないでバーの駐車場へと歩き出した。突然帰りたいと言い出した理由を聞かれるかと思ったが、寺本は気にしていないようだ。途中で何人かに声を掛けられ、その都度寺本は手を上げて返事した。
 寺本は法律上運転ができる量しかアルコールを入れていない。しかも元々酒には強いので酔っているはずはないのだが、気のおけない友達と会ったせいか、いつもよりかなり上機嫌だった。つないだ手に力を入れながらだらしない顔で言った。
「なんかいいよね、手をつなぐのって。仲良しって感じで。ボンドでくっつけちゃおうか」
「運転できないよ」
「はは、そうだね」
 緑のカムリの前まで来ると、しばらく手を握ったまま滝田を見つめていたが、横を向いて口惜しそうに手を離した。車に乗り込むと、また手を握ってきた。
 手を握ったまま、寺本は笑って滝田に軽くキスをしてから言った。
「トイレ、今度から僕も着いていくよ、小鳩ちゃん」
「え?」
 滝田の様子がおかしいと、寺本は気付いていたのだろうか。ヒールのこと、気付いていたのだろうか。
「やっぱり危ないよね、一人じゃ。ずっと前に、ここのトイレで個室に連れ込まれて襲われたことがあったのを思い出したんだ」
「お、襲われたって…、だ、誰に?」
「誰って、知らない奴だよ」
「あ…そうなの……」
「ごめんね。今度は一緒に行くからね。今日は無事でよかった」
 そう言われてしまうと、確かに「今日は無事だった」と思うしかなかった。
 寺本は目を閉じて、もう一度滝田に唇を近付けた。滝田も目を閉じた。閉じた瞼の裏に毛だらけの男の姿が浮かんだ。
《彫刻のモデルをやらないか?》
 ハッとして目を開けた。寺本も開けた。
「ん?」
「な、何でもない」
「もしかして、ヒールのこと、気にしてる?」
「…そんなことないけど…」
「昔のことさ。それに、僕、振られちゃったんだよ、彼に」
「振られたの? 寺本さんが?」
「そうさ。ある日突然、音信不通になっちゃったんだ」
 二人の間に何があった聞くつもりはない。聞きたくもない。しかし滝田には解った。ヒールはまだ寺本に未練があるのだ。あれは現在の寺本の恋人である滝田への嫌がらせなのだ。
 複雑な気持ちだった。
 その晩もラベンダーの香りのシーツの中で、三回ぬかれて、三回抱かれて、それから寺本の熱い体を胸に抱いて眠りに就いた。
《男の胸は落ち着く》
 寺本は滝田の胸に頬を載せ、しがみ付くようにぴったりと体を寄せた。
《よく眠れる》
 安らかな顔で、よく眠っていた。
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テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

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