射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 3-8

『もしもし、悟、いるか?』
 ハッとして電話を見る。母ではない。もっと低い声だ。
「出ようか?」
 と言ったヒールを寺本は制す。
『…留守か。久し振りだな、父さんだよ。母さんが毎日のように掛けてるらしいな。悪かったな、知らなくてな。あんまり気にするなよ、八つ当たりしてるだけなんだから』
 父とはもう何年もまともに話していない。
『母さんが区役所から婚姻届なんてもらってきて、父さんに署名しろなんて言い出したから、びっくりして掛けてるんだよ。お前、そんなの聞いてないだろ?』
 こんなしわがれた声をしていただろうか。それとも、時の流れのせいなのだろうか。父の顔を思い出そうとしても、思い出すのは若い頃の父だけだった。
『父さんはな、謙太郎たちのこと、本当によかったと思ってるんだ。騒いでるのは母さんだけだよ。だから心配するな。お前もな、いいんだぞ、帰って来なくて』
 受話器を取りたい衝動に駆られた。
『年寄り二人っていうのも、結構静かでいいもんだ』
 この受話器を取ったら、何かが変わるのだろうか。
『お前みたいな生き方もな、父さん、悪くないと思う。結婚だけが人生じゃないし、結婚しなくたって、お前のことだから、女の子には不自由してないんだろ? お前は父さんに似てハンサムだからな。それなら男として別に………困ることはないだろ? ははは』
 この受話器を取ることで、二人の間の空白を埋めることができるのだろうか。父なら、今の自分を理解してくれるとでも言うのか。
『実はな、今回のお前の反乱、父さん、ちょっと嬉しいんだ。反乱…ってのも大袈裟だけど、ほら、お前はいつもいい子だったろ? 謙太郎は小さい時からいつも問題起こしてたけど、お前は赤ん坊の頃から、夜泣きはしないし、よく食べてよく寝て、ワガママ言ってるのも聞いたことないし、物も欲しがらなかったし。何も欲しがらないから、パパ・サンタは、かえって大変だったんだぞ』
 いい子だった訳じゃない。兄がいれば、他に何も欲しくなかったというだけだ。
『母さんは、ホントはお前の方が心配だったんだ。小さい時からよくラブレターとかもらってきて、いずれ女性問題とか起こすんじゃないかって。なのに、あんなポンクラしてる謙太郎の方が、あんなことになっちゃってな』
 小さな時から好きになるのは男だった。放課後、後を着けてくる女の子には、恐怖すら覚えた。
『お前は奥手で、カノジョの一人も連れて来ないで、このまま将来、母さんの決めた人と結婚しちゃうんじゃないかって、父さん、真剣に心配したこともあったんだ。だから、ほら、大学の卒業間際の頃、カノジョができたらしいって母さんから聞いた時、正直嬉しかったんだよ。留学が決まってるのに付き合い始めたって事は、一緒に留学するんだろうなって思ってたんだけど……。あ、すまん、古傷に触れたか?』
 それから父は一度咳払いをした。
『母さんがああなっちゃったのも、父さんの責任かなって思ってるんだ。大変な時に、いつも家にいなかったろ? だからその分、これから父さんが頑張って母さんの愚痴を聞くから安心しろ。母さんからの電話もな、あんまりうるさいようなら番号変えていいんだぞ。ほとんどストーカーだからな。何かあったら父さんの携帯に電話しろ。番号は…』
『これ以上録音できません』
 ベッドから走り下りて受話器を取った。
「もしもし? もしもし? 父さん?」
 既に回線は切れ、ピーという耳障りな音だけが響いていた。
「…………ごめんね……父さん…」
 ヒールは黙って寺本を見ていた。
 次の日の朝、寺本が寒さを感じて目を覚ますと、抱き締めていてくれたはずのヒールの姿が見当たらなかった。夜の間に荷物をまとめて出て行ったのだった。リビングに広げられていた仕事道具はすべて消えており、床には粘土のカケラさえも落ちていなかった。



「僕だよ」
 あれだけ電話しろと騒いでいた母が、電話の向こうで黙ってしまった。 そして一呼吸おいて、薄情者だとか親不孝者だとか、息吐く間もないほど騒ぎ始めた。
 昔はこんな母ではなかった。不在がちな父の代わりに息子たちとキャッチボールまでしてくれた母だった。「悟が突き指する」と心配する兄に、「この程度で突き指するくらいなら、ピアノなんてやめちゃいなさい」と明るく笑った母だった。学校の授業参観では必ず、「悟ちゃんのママ、きれい」とみんなに言われて、鼻が高かったものだ。
 物心つく前に始めたピアノも、いつも隣に母が座っていてくれた。楽譜がまだよく読めない頃は、何時間でも一緒に音取りをしてくれた。
 幼稚園の頃のピアノの先生は電車で片道一時間以上も掛かる所に住んでいたので、レッスンの帰りには、まだ幼い寺本は必ず電車の中で寝てしまい、駅からは母にオンブされて家路に着いた。母の温かい背中が大好きだった。本当は起きているのに、寝た振りをしたこともあった。母はそれが解っていた。
 音大の附属の小学校に入れたのも母のお蔭だ。母がいなかったらここまで来られなかっただろう。
 あんなに優しい母に育てられたのに、寺本は女性を愛せない男になってしまった。
 寺本のベッドで、寺本の耳元にささやいた兄の言葉が蘇ってくる。
《友達にさ、お前んちの弟、女の子より可愛いって言われてさ》
 兄が寺本の顔をじっと見つめたの憶えている。
《カノジョにやってもらうより、弟にやってもらった方が気持ちいいんじゃないかとか言われてさ》
 あの頃は、何を言われているのか解らなかった。
《っていうか、あいつ、やってくれないし》
 何をされているのか、おぼろげながら解ってきてはいたが、やはりよく解らなかった。
《…やらせてくれないし》
 受験生の兄のために兄が家にいる時には極力ピアノを弾かないようにしていたが、それでも、どうしても弾かなくてはならないこともあった。コンクールの時期だ。
 小六の秋、寺本は学生コンクールの小学生部門の東京地区大会で三位に入賞し、全国大会に進めることになった。二位になった女の子は、優勝できなかった事が悔しいと母親の胸を叩いて泣き叫んでいたが、入賞できるとは思ってもいなかった寺本は、にわかに嬉しいと感じる余裕さえなく、ただただ膝をガクガクと震わせていたという記憶がある。
 両親は大喜びだったが、大学受験を控えた兄の手前、あまり大騒ぎできなかった。兄は模擬試験でいつも合格ラインを彷徨っていたのだ。「合格発表が終わったら、まとめて盛大に祝おう」と父が言って、兄があからさまに不快な顔をしたのを憶えている。
 優しかった兄が、その頃はまるで別人のようだった。寺本がピアノを弾き始めた途端、二階から下りて来て「うるさい」と叫び、図書館に行ってしまうこともあった。
 地区大会で入賞した次の週、寺本は中目黒の父の実家に電話で呼ばれて遊びに行った。呼び鈴を押しても誰も出て来ないので、恐る恐る玄関の引き戸を開けてみると鍵が掛かっていなかった。玄関で靴を脱ぎ和室を覗くと、テーブルの上には特大のケーキと寺本の大好きなチラシ寿司が置かれていた。ケーキの上には、寺本の大好きなイチゴと、砂糖で作ったグランドピアノが飾ってあった。隠れていた祖父と祖母が飛び出して来た。
《おめでとう、悟》
 祖父と祖母が叫び、寺本は二人に抱き付いた。祖父の膝の上でケーキを食べ、祖母が優しく頭をなでてくれた。
 受験生とコンクール全国大会出場の小学生を抱え、父は不在がちで、母にとっては精神的にも体力的にもかなり辛かった時期だったと思う。中目黒の祖父母が何かと協力してくれた。
 しかし寺本は全国大会の当日熱を出し、その演奏は惨憺たる物だった。全国大会でも入賞したいなどという恐れ多い野心はなかったが、せめて自分なりに精一杯悔いのない演奏をしたかったのだ。
《ごめんなさい…》
 結果発表後、口から出た言葉はその一言だけだった。両親と祖父母は驚いて慰めてくれたが、寺本本人はそれが実力なのだと不思議なほど納得していた。熱を出してもきちんと弾ける奴はきちんと弾ける。元々地区大会で入賞したのも何かの間違いだったのだ。寺本は心からそう思った。
 その頃には既に、兄の来る晩が解るようになっていた。
 塾の模擬試験の前の晩、模擬試験当日の晩、そしてその試験の結果が芳しくなかった日の晩。元来素直な性格であった兄は感情が安易に顔に出た。学校で嫌な事があったと玄関で大声で騒いだ日の晩、塾に行こうとしたら自転車のタイヤの空気が抜けていたと母を責めた日の晩、夕食のおかずが気に入らないとすべてゴミ箱に捨ててしまった日の晩。そんな晩は必ず兄は寺本の部屋を訪れた。昼間は冷たい兄が、夜は優しく体に触れてくれた。
 年が明けて国立大学の受験日が近付くにつれ、兄の訪問は頻繁になっていった。滑り止めの私大を受けるために兄は何度か関西に出掛けて行き、東京に戻った晩は必ず寺本の部屋へやって来た。
 国立大学の合格発表の前の晩、その晩が最後の晩だった。
 駅の新幹線ホームで、兄が両親と祖父の目を盗んで、こっそり寺本に言った。
《お兄ちゃん、ちょっと受験ノイローゼだったと思うんだ》
 元の優しい兄に戻っていた。
《だから、よく憶えてないんだ。ホント、憶えてないんだよ》
 憶えていない。何を憶えていないというのか。
《でも、合格できたのは悟のお蔭だと思う》
 何を言われているのか解らず、黙って聞いていた。涙が頬を伝った。
《ごめんね、悟。でも、お前、まだよく解んないよね。解んなくていいから。とにかく、その、忘れちゃっていいから。あ、誰にも言っちゃ駄目だからね。絶対駄目だよ。それじゃあね、元気でね》
 急いでひかり号に乗り込む兄の広い背中。涙でぼやけてよく見えない背中。抱き付きたいのに、抱き付けない背中。寺本の目から止めどなく涙があふれた。祖父が笑って言った。
《悟は本当にお兄ちゃんが好きなんだね》
 中学に入って、ぽっかりと空いた穴を埋めてくれる奴に会った。
《寺本くん? あれ、寺本くんだ。ぼくたち、同じ駅だったんだね》
 入学式の次の日の朝、通学電車を待つ駅のホームで、同じクラスの隣の席の奴に声を掛けられた。中学から音中に入ったバイオリンを弾く奴だった。
《寺本くん、昨日、具合悪かったみたいだから。ぼく、ずっと隣で話してたのに、ボーッとしてたから。今日は大丈夫?》
 それから毎朝一緒に通学するようになり、帰りも一緒に帰るようになった。昼間はそいつと笑い、夜は兄を想うようになった。
《寺本、今度うちに遊びにおいでよ》
 間もなく二人は、お互いの家に泊まり合うほどの仲になった。
《ぼく、寺本のこと去年から知ってたよ。学生コンの地区大会で入賞したでしょ。すごいね。すごいよ。ぼくなんていつも予選落ちだよ》
 やがて昼間はそいつと笑い、夜はぐっすり眠れるようになった。
 寺本が落ち込んでいても、具合が悪くても、そいつはお構いなく大声で話し続けてくれた。寺本が黙っていても、そいつは何時間でも隣で一方的に話し続けてくれた。それが心地よくて、寺本はいつも心から救われていた。彼がいなかったら、寺本はどうなっていたことか。
 可愛がってくれた中目黒の祖父が、その後間もなく夏風邪をこじらせ急死し、心にまたぽっかりと穴が空いた。葬儀のために帰省した兄とは、一言も言葉を交わさなかった。
 その穴を埋めてくれたのも、その親友だった。
《おじいちゃんはね、雲の上に行ったんだよ。雲の上から、いつも寺本のこと、見ててくれてるんだよ。だから、寂しくないんだからね》
 通夜の席では、寺本よりもその親友の方が遥かに大きな声で泣いていた。
《寺本、知ってる? ホロビッツが来るんだって。一緒に聴きに行こうよ》
《寺本ってさ、好きな子、いる? ぼくね、タカハシさんが好きなんだ。美人だと思わない? みんなには内緒だよ》
 大学に入った兄はバイトをしてローンで車を買い、二度ほど自動車事故を起こした。いずれも軽い事故で幸い怪我人は出ず、何とか示談が成立し、こちらの保険で相手の車の修理費を払うことで解決した。その都度母は関西に足を運び、その都度父の払う保険代は高くなった。
 大学の長期休みや年末年始、兄はほとんど東京の実家に帰って来なかった。やれバイトだ、サークルの合宿だ、家庭教師だと、何かと理由を付けて関西の下宿に残る事を望んだ。例え帰省しても、ほんの数日滞在するだけで、すぐにいそいそと関西に戻って行った。
 寺本が高一の時、大学卒業を控えた兄の恋人が妊娠した。大学の同級生だった。
 学期中にもかかわらず兄が突然帰省した日、連絡を受けた父は国内の出張先から最終便の飛行機で帰って来た。普段あまり顔を合わせないせいもあり、寺本は父親に叱られたという記憶はなく、兄が叱られている姿を目にした事もなかった。
 それが、その父が帰宅するなり兄の頬を平手で打った。廊下を通り掛かった寺本がそれを見て慌てて立ち去ろうとすると、父は「悟もここに座りなさい」と言った。弟に醜態を見られて、兄は気まずそうな顔で目を逸らした。「今時手をつなぐだけで満足する恋人同士がいるとは思ってない」と父は切り出した。「悪い事だと言うつもりもない」と続けた。「でも、ことこういうことになってしまった場合、それじゃ済まされないんだ」という父に、兄が不満そうに「堕ろしゃいいのか」とつぶやくと、父はもう一度兄の頬を打った。「結婚しろって言うならしてやるよ」と言った兄に、父が再度手を上げようとした時、母が兄に覆い被さり「起きてしまった事は仕方ない」と叫んだ。父は兄に向かって「お前はいい加減自分で自分が嫌にならないのか」と言い捨て、二階の書斎に上がってしまった。父は翌朝、「向こうの親とも話し合って、これからのことは自分達で決めなさい」と言い残し、始発の飛行機に乗って出張先に戻って行った。
 母親の精神状態がおかくなり、寺本はキッチンですすり泣く母の姿を何度か見た。
 そして兄と彼女は卒業と同時に結婚することになった。放課後専門学校にも通い公認会計士を目指していた兄は、学部卒業後大学院に進む予定だった。学部在学中に少しずつ資格を取り、公認会計士になるための残りの資格は院に通いながら取るつもりだったのだが、大学院はキャンセルして就職すると言った。父もうなずいた。これから父親になろうという息子とその家族の生活を丸抱えしてやるほど、寺本の父は甘くはなかった。
 それが決まった数日後、相手の女性の両親が関西から東京の寺本の家を訪ねて来て、寺本の父に「謙太郎くんを大学院に行かせてやってくれ」と訴えた。父は海外出張から戻ったばかりで、珍しく朝から家にいた休日だった。父が「うちにそんな経済的余裕はありません」と言い、母が「若夫婦と子供の生活はお宅で面倒みてくれるんですか?」と声を荒げた。父が「よしなさい」と母を制した。すると今度は相手が「お宅の息子の不始末の責任はお宅で取れ」と声を荒げた。父は毅然として「子供は一人では作れません」と言った。「悪いのはあんたの息子だ」と怒りをあらわにされ、「うちの息子も悪いが、お宅の娘さんだって悪い」と言い放った。相手の父親が寺本の父に殴り掛かろうとして、相手の母親が必死に制した。寺本の母が「うちで援助してあげましょうよ」と父に訴えた。「うちにはもう一人子供がいるんだ」と父が低い声で言った。キッチンで息を潜めて聞いていた寺本は、両耳を押さえて二階へ上がった。 寺本の音楽学校の学費が高額であることは、高校生の寺本も解っていた。
 そして兄は大阪の企業に就職した。結婚後も夢は捨て切れなかった兄だったが、残業と夜泣きの子供と一緒に独学を続けるのは不可能に近かったらしい。
 結婚した兄は、盆休みと年末年始には家族を連れて寺本の実家を訪ね、泊まっていくようになった。長男の突然の結婚に手放しでは喜んでいなかった両親も、会う度に大きくなる孫の顔を見るにつれ、少しずつ態度を軟化させていった。
 その頃には、もう兄はことさら寺本を避けるような態度は取らないようになっていた。「もう時効」ということだろうか。会う度に「カノジョはできたか」と笑いながら聞き、寺本を不快にさせた。
 兄家族のいる間、寺本は食事時以外は自室にこもるようになった。何かと理由をつけて友達の家に行ったり、「ピアノを弾きたいから」と頻繁に学校へ出掛けたりもした。幸いピアノを弾き始めると、その大きな音に赤ん坊は火が点いたように泣き出してくれたのだ。
 幼い姪は可愛らしく思えたが、結局義理の姉とは今まで一度も、正面を向いて会話を交わしたことはない。可愛げのない義弟だと思われていただろう。
 寺本が大学四年になった時、兄に東京転勤の内示が出た。母は大喜びで、自宅を二世帯住宅にして兄家族と同居することが決まった。設計図には寺本の部屋もあった。でも寺本は思った。もうこれで自分はこの家には必要ない。母には兄がいればいい。自分にも母はもう必要ない。
 兄が戻って来る。この家に戻って来る。あんなにそばにいて欲しかった兄が、この家に戻って来る。
 今度は僕が逃げる番だ。
 これで僕は、自由な国で、自由に生きることができる。好きなピアノを弾いて、好きな男を抱いて、好きな男に抱かれて、好き勝手に生きることができる。自分はそんな風にしか生きられない。
 高額な授業料を長年払って貰った挙句の留学。反対されて当然だろうと覚悟していたが、意外にも父は喜んでくれた。中目黒の祖父が寺本名義で預金していたという通帳と印鑑を出してきてくれた。学費などの諸費用はそれでまかない、月々の仕送りくらいはどうにかなると言ってくれた。母は寂しそうだったが、兄も帰ってくるせいか無理に引き止めることはしなかった。
 留学を決めた後、予定外の、胸が張り裂けるような恋をした。
 愛してはいけないと自分に言い聞かせながら、愛さずにはいられない男がいた。抱かれてはいけないと思いながら、抱かれずにはいられない男がいた。
 その男は、息を吐く間もないほど無邪気に寺本を愛してくれた。それまでいくつかの恋はした。しかし誰もみな男同士ということに怯え、悩み、そうでなければ酔いしれた。あからさまに「禁断の恋だ」と繰り返し、その背徳を楽しもうとする者もいた。そして結局、みんな向こうの世界へ帰って行った。
 男だ女だなどに関係なく、自分を愛して欲しかった。なのに、男だ女だなどに関係なく愛された時、恐くなった。いつか目を覚まして去ってしまうのではないか。そう思うと恐くて仕方なかった。去られても、それまでのように他の男でウサ晴らしして忘れることなどできないほどに、愛し過ぎていた。
 若かった。恐いものなど何もないつもりだったのに、その男が恐かった。
《どこの学校だよ…》
 その男は追って来る。とっさにそう思った。そして思わず、嘘を吐いた。
《イーストマン・スクールです》
 すぐにばれる嘘だった。ちょっと誰かに聞けば、簡単にばれるはずだった。なのに、あろうことか、その嘘はばれなかった。そして取り返しの付かないことになった。
《馬鹿だ》
 その言葉の真の意味を、その男が理解することはなかった。
《馬鹿はお互い様だ》
 頬を伝う涙の意味も、理解することはなかった。
 若かった。そんな言葉で許されるものは何もない。でも、痛いほど、若かった。
 だから、合鍵を返し、貰った物を返し、そして彼自身を向こうの世界へ返した。向こうの世界から借りた物は、向こうの世界に返さなくてはいけないから。
 だって本当に、痛いほど好きだったんだ。

 一通り悪口雑言を吐いて落ち着いたのか、大きくひとつ深呼吸をして、母は黙った。
「用件だけ言うから。まず兄さんのこと、よかったと思うよ。もうそっとしておいてやってよ。それと僕のこと、まず、引っ越すことにした。後で葉書を書くよ。それと、悪いけど僕は女の人とは結婚できない。男しか愛せないんだ」
 受話器が重くなって、反対の手に持ち替えた。
「…テレビとかでよく見るでしょ? あれだよ。もう中学の時からだよ。黙っててごめんね」
 にわかには信じられない。そうだ。当たり前だ。
「違うよ。必ずしも女の人の格好してる訳じゃないんだ。……そうだよ。友達がよく泊まりに来てたでしょ? そういうことだよ。……いや、あいつは違うよ。あいつとは何でもなかったよ。本当だよ。あいつは今でも親友だ。葉書もこの前もらったよ、四人目ができたって。すごく可愛い赤ちゃんだよね。お祝い、こっちから送っておいたから。おばさんに変なこと言わないでよ」
 あなたはいつもいい子で、手が掛からなくて、素直で…。なのに、どうしてなの?
 兄の大学の入学式に列席して、東京の家に戻って来た父と母。母は夕食の席でずっと泣いていた。
《悟は、悟はずっとここに居てくれるんだものね。音大卒業まで、ずっと。卒業しても、ここから通える所に就職してくれるんだものね》
《よしなさい。それは悟が決めることだ》
 父が少し怒った。
《悟はいい子だもの。お母さんのこと、大事にしてくれるもの。どこにも行かないもの。ずっとここにいるんだから》
 いい子なんかじゃなかったよ。根本的なところで、ずっと父さんと母さんを騙していたんだから。
 何が悪かったの?
 やっぱりそう来るか。
 お母さんが悪かったの? 二人目がずっとできなくて、今度は女の子が欲しいって思ってて、だから、女の子になっちゃったの?
 だから僕は女の子じゃないんだよ。男が好きな男なんだ。何を可笑しなこと言ってるんだろう。
 お母さん、間違ってた? 野球とかサッカーとかさせるべきだったの? 赤とかピンクの服着せてたのが悪かったの? だってあなたは、赤ちゃんの時から、女の子に間違われるくらい、ううん、女の子よりも可愛くて…。お母さんが悪かったの? お母さんのせいで…。
 悪い、悪い、悪い。…やっぱり僕は、悪い事をしているのかな。何だか、少年刑務所の面会室の会話みたいだ。
 まだ間に合うの? 今からでも治るの?
 ……治る…って…そういうもんじゃないんだよ。…それとも、やっぱり病気なのかな。
「そういう訳だから、もう日本には帰らない。僕から電話もしない。迷惑も掛けない。……え? そんな、兄さんにも親戚にも、別に言う必要はないと思うけど。だから、母さんも、父さんと二人で仲良く暮らしてね。体には気を付けて」
 母の息を殺す気配が感じられた。
「…あの…、こんなこと言うの、変なんだけど……、僕、母さんのこと、大好きだったんだ。明るくて、優しくて、きれいで、自慢のお母さんだった。僕のこと、すごく可愛がってくれたよね。それなのに、ごめんね、僕の子供、抱かせてあげられなくて。本当に、ごめんね」
 電話の向こうで母が号泣し始めた。この世の終わりが来たような声だ。鼓膜が破れそうなほど大きな嗚咽だ。しかし寺本は受話器を耳から離すことなく、その声を薄い鼓膜に響かせた。
 愛してくれた母。だからと言って、これからどうすればいいというのだろう。今まで親不孝した分、これからは親孝行しろというのか。母の決めた人と結婚して一緒に住む。それが果たして親孝行というのだろうか。子供なんてものは、親元から離れて幸せに暮らしてくれるのが一番の親孝行ではないのか。
 この期に及んでそう思ってしまうなんて、本当にロクデナシの息子だ。
「父さんによろしくね。それじゃ、今まで育ててくれて、本当にありがとう」
 父も悲しむだろう。仕事ばかりの父だったかもしれない。しかしあの世代のビジネスマンなど、誰しもそんなようなものだった。そんな家庭の子供でも、たいていみな真っ直ぐに育っている。それに、そのお蔭で高額な音楽学校の学費が払えたのだ。
 音高に入った年に、スタンウェイのグランドピアノがやって来た。さすがに新品には手が出なかったが、運良く具合の良い中古が見つかったと楽器屋から連絡が来たのだ。それでも国産の新品よりも遥かに高額だった。そして遥かに良い音で鳴ってくれた。届いた日からしばらくは嬉しくて嬉しくて、リビングに布団を敷いてピアノの隣で寝たものだ。あの独特の厳かな響きをいつまでも感じていたくて、近所から苦情が来るのではないかと母親が心配するほど、夜遅くまで弾き続ける日が続いた。
 好きなピアノを好きなだけ弾けたのは家族のお蔭だ。留学もできた。
 いったい僕は、何人の愛してくれた人を泣かせれば気が済むのだろう。どれだけ人を傷付ければ満足するのだろう。どれだけ食べれば、お腹いっぱいになるのだろう。
 虹の向こうの空高く(※)。昔そんな歌があった。そう、あれはオズの魔法使い。虹の向こうの空高く、昔子守唄で聞いた国がある。空は青く、夢が叶う国がある。いつの日か、星に願いを掛けよう。そして朝目覚めると雲は晴れ、辛いことはレモンドロップのように溶けてゆく。見て、僕はここに居る。煙突の上、はるか空高く、僕はここに居るよ。幸せの青い鳥が飛んでいく。虹の向こうへ飛んで行く。それが何故、僕にはできないのだろう。
 いや、鳥に飛んで行けるのなら、僕に飛んで行けないはずはない。
 自由の国アメリカ。虹を越えてやって来た。でも、自由はあまりにも遠い。


※『Over the Rainbow』 作詞:E.Y. Harburg

ゲイのシンボルカラー「レインボー」の旗を掲げる同性愛者たちの愛唱歌のひとつ

Somewhere over the rainbow 
Way up high,
There's a land that I heard of
Once in a lullaby.

Somewhere over the rainbow
Skies are blue,
And the dreams that you dare to dream
Really do come true.

Someday I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far
Behind me.
Where troubles melt like lemon drops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me.

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly.
Birds fly over the rainbow.
Why then, oh why can't I?

If happy little bluebirds fly
Beyond the rainbow
Why, oh why can't I?


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テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

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