射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

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赤いマスタング 3-10

 ボブが寺本の引越しの荷造りの手伝いに来てくれた。 寺本は元々必要最小限の物で暮らしていたので持ち物は少なく、荷造りもそれほど大変ではない。しかし誰か話し相手がいると気も紛れて、棚から出してひたすら箱に詰めるという単調な作業も楽しく思える。
「悪いね、手伝ってもらって」
「その代わり、このキャビネットもらって行くぜ」
「どうぞ。こんな古いのでよければ」
「古いって、お前、アンティークだぜ、これ」
 昔の日本の家によくあった黒い漆塗りの茶ダンスだ。今でも田舎の大きな家に行けば普通に見かけるであろうこうした家具類が、アメリカのアンティークショップではアジア趣味の人々向けに高く売られている。この家を借りた時、葉山の母方の祖母が「日本っぽいから」と船便で送ってきたのだ。
「おばあちゃんが送ってくれたんだろ? いいのか?」
 ボブは多趣味な男だ。スポーツ以外にもアンティーク収集の趣味がある。
「元々祖母は、帰国する時には、誰かアメリカ人に譲ってやってくれって言ってたんだ。君がもらってくれれば、祖母も喜ぶと思う」
 二人はピアノの奥の本棚の楽譜を次々と段ボールに詰める。
「…本当に行っちゃうんだな」
 ボブがつぶやくように言った。
「六月のプライドには遊びに来るから君の家に泊めてよ」
「デビーの家じゃなくて、うちに泊まるのか?」
「お邪魔でなければ」
「誤解するぞ」
「君とは寝ないよ」
「相変わらずケチだな」
「そう、僕はケチなんだよ」
「最後に一発やらせろよ」
「お、珍しく直球で来たね」
 満杯になった段ボール箱に封をしながら寺本が笑った。そして立ち上がって、新しい段ボール箱にまた楽譜を詰め始めた。
「なんか腹立ってきた。おい、やらせろ、この野郎、ケツ出せ、ケツ」
 ボブは寺本のジーンズを無理矢理下に引っ張った。寺本は笑いながらジーンズを押さえ、ピアノの反対側に逃げ込んだ。ピアノの周りで、大の男二人は三回ほど時計回りに走った。ピアノの向こうで停止したボブが言った。
「パレードは? 俺と一緒にコンドーム配ろうぜ」
「あは、そうだね、それもいいかもね」
 あまり乗り気ではなさそうな寺本の返事に、ボブは諦めてまた本棚の方を向いた。
「あ、その辺り、君の伴奏の楽譜だよ。忘れずに持って返ってね」
「お前にずっと伴奏して欲しいんだけどな」
「ごめんね」
「お前さ、俺と本格的に組まないか? 俺、ツアーと録音にもお前を連れて行きたいんだよ」
「君には優秀な伴奏者がいるじゃない」
「彼女、最近糖尿病がひどくて、もう遠出は辛いらしい。そろそろ代わりを探してくれって言われてるんだ。彼女も、お前だったら申し分ないって言ってるんだぜ」
「僕じゃ力不足だよ」
「そんなことないさ。俺の事務所の社長も、お前のこと、認めてるんだ。お前さえよければ契約したいって」
 寺本はボブを見て肩をすくめた。
「社長さん、ゲイなの?」
 ボブは噴出しながら答えた。
「残念ながら違うそうだ。一度迫ったら断られた」
 ボブは寺本に近付き、両手を寺本の腰に置いた。ボブの青い目が寺本の目の前に来た。
「お前と俺、息が合うっていうか、お前、俺のいいトコ引き出してくれるのが上手いっていうか。なあ、俺と、お前と、『ボビー・ザ・ウルフ』で、世界中ツアーしようぜ」
「……誰?」
「こいつだよ、俺のストラッド」
 ボブはソファの上のバイオリン・ケースを顎で差した。
「『エクスカリバー』でしょ?」
 寺本が鼻で笑う。
「自分の楽器くらい自分で名前付けたいじゃないか。俺が二番目に愛してる可愛いパンプキンだ」
「うん、きれいなオレンジ・ブラウンだね。メイプル・シロップを塗ったみたいだ」
 二人はソファの上のボブの青い楽器ケースを見つめた。ロンドンの楽器収集家から終身無償貸与されているストラディバリウスだ。アントニオ・ストラディバリが五十を過ぎ、その技術が円熟した十八世紀初めに作られた作品だ。油が乗り切った名職人の、黄金時代の楽器のひとつだ。
「三人でさ、一年中ハネムーンだ」
「ハネムーン…」
「そうさ。旅はいいぜ。ヨーロッパなんて最高だ。国境一本越えるだけで言葉が変わって景色も全く変わるんだ。アメリカなんか安っぽく見えるぜ。楽器の音色まで変わるようだ。あの石畳の上で弾けたら、さぞ気持ちがいいだろうよ」
 ボブはよく、ジプシーのように、青空の下でバイオリンを弾きながら旅ができたらさぞ楽しいだろうと話している。
「イタリアのバイオリンは、イタリアに帰りたがってるんだ。可哀想に、こんな西の果ての色気のない大陸に連れて来られちゃってよ。イタリアに帰るとさ、こいつ、息を吹き返したように響き出すんだぜ。そりゃあもう情熱的だ。聴かせてやりたいよ、お前に」
 ボブのこんな話を聞くのが寺本はとても好きだ。音楽家の話、楽器の話、ツアーで訪れた世界各地の話。世界中であらゆる指揮者や楽団と共演しているボブの話はいつも魅力的で興味深い。まだ寺本の英語がつたなく話がよく理解できなかった頃も、ゆっくりと、何度でも、根気良く同じ話を繰り返してくれたものだ。
「お前とさ、ずっと一緒に旅したいよ。老いぼれて、指が動かなくなって、弾けなくなるまで、ずっとな」
「僕はそんなに長生きしないと思う。無茶するから」
「何言ってんだよ。長生きしなきゃいけないんだよ、俺達は」
「君のポリシーはセイフ・セックスだもんね」
「俺達はさ、神様から才能をもらって生まれてきたんだ」
 ボブのこんな堂々としたところが好きだ。妙にへりくだらずに、自分の誇れるところは何はばかることなく誇る。ボブはそんな典型的なアメリカ人だ。慣れてしまうと心地よい。
「俺達、じゃなくて、俺、だよ」
「お前もだよ。才能をもらっちゃった奴らってのはな、長生きして、奉仕しなきゃいけないんだ」
 ボブの真剣な目に、寺本は圧倒される。
「アントニオ・ストラディバリってさ、百歳近くまで生きてよ、恐ろしくタフなじいさんで、たっくさん楽器を遺してくれたんだ。でもな、ガルネリ・デル・ジェスって、やたら早死にでよ、出回ってる楽器はアントニオの一割くらいしかないんだ。もっと頑張って、長生きして、沢山いい楽器作ってくれたら、もっと沢山の奴らがあいつの名器を弾けたのにな。そしたら、もっと沢山の奴らがあいつの作った音を聴けたのにな。人の寿命にケチ付けるつもりはないけどさ、ああいう奴らってのは長生きする義務があるんだよ」
「…大変だね、才能のある奴らって」
 寺本は納得してうなずく。
「画家とか小説家とか、技術者とか学者とか、みんなそうだよ。その才能で沢山の物を遺すべきだ。科学者も長生きして、ほら、あの…なんとか菌とか、なんとか遺伝子とか、沢山そういうすごい発見して欲しいと思うぜ」
「エイズの特効薬とかね」
「そうそう、それだよ」
「でも、まだまだ先になりそうだね」
「だからセイフ・セックスだよ。俺は長生きするぞ、絶対に」
「ボブ…」
「俺は一日でも長く、一人でも多くの人のために弾き続けたいと思ってる。聴いてくれるって人がいる限りな」
 ボブが熱く語る。寺本はめまいを覚える。ボブの彫りの深い顔は近くで見ると迫力がある。眉の奥へ引っ込んだ瞳は透き通るような空色で、油断すると吸い込まれてしまいそうだ。その青い瞳が笑みを放った。
「それにはまず食生活を改めないとな。ジャンクフードはほどほどにするよ。日本人みたいに魚食べるよ。焼いたサシミ食べるよ」
「焼いちゃったらサシミって言わないんだよ」
「へえ、日本語って難しいな」
「そうだね」
「な、イタリアで、一緒に魚食おうぜ」
 夢のような話だ。素晴らしいソリストと二人で、自分もピアノを弾きながら、世界中旅をする。
「いいよ」
 寺本があっさりと言う。
「…いいのか?」
「うん」
 ボブは急に失速し、口ごもりながら言った。
「ええと……俺、今、口説いてるんだぜ。解ってんのか?」
「解ってるよ。言っておくけど、僕、かなりしつこいよ」
 オアズケを食っていた犬が突然口の中に肉を放り込まれたように、ボブが小躍りせんばかりに寺本の体を抱き寄せる。
「サトル…」
 寺本は手を伸ばしてボブの頬をなでた。
「悪いけど俺も相当しつこいぜ。一晩五回はいける」
「プラス朝二回」
「商談成立」
 ボブがとろけるような顔で寺本を見た。
「君と僕、どっちが先にいれるの?」
「それはコインを投げて決める」
 そのままボブが目を閉じて寺本に唇を近付けた時、
「…君ほどの奴にくっ付いて行けば、僕も演奏家として生きていけるのかな」
「……え?」
「僕も大したもんだな。この歳で、まだ体で仕事を取れるんだね」
 寺本がおどけて言うと、ボブは寺本を離し一歩後退りした。
「それも悪くはないか。若い頃からそうしてればよかったのかな」
「お前…」
「僕なんて大したことないのにさ、体じゃなくて腕で仕事を取りたいなんて、そんな意地を張らなければ、また違う道が開けてたかもね。これでも、若い頃はさ、公私共にパトロンになりたいって言ってくれたおじさん達もいたんだよ」
 そう笑って話す寺本をしばらく睨み付けていたボブは、ため息を吐きながら横を向いた。
「…おい、そういう意味じゃないよ」
「解ってるよ。冗談だってば。この本棚、よろしくね。僕は向こうを片付ける」
 寺本はボブから離れて寝室に向かった。
「俺、そういうつもりで言ったんじゃないよ。そりゃ…最初は下心もあったけど…、でもホントに、俺は音楽家として評価してるんだ、お前のピア…」
「解ってるってば。それに、体で取った仕事なんて、いつかボロが出るよ」
「お前、そんな風に思って伴奏してたのか」
 ボブは背中を丸め、大きな手で頭を抱えた。
「違うよ。ごめん、悪い事言っちゃったね。僕ってホント、ひねくれてるな」
 寺本は首を振りながら寝室に入る。
「嫌なら嫌って言えばよかったんだ」
 ボブはそう言って、空になった飾り棚を短いブーツで力いっぱい蹴飛ばした。
「嫌なんかじゃなかったよ。楽しかったよ」
 それからボブは本棚から伴奏の楽譜を出して思い切り床に投げ付けた。
「お前、どうしていつも考えてる事はっきり言わないんだよ」
「君が言い過ぎるんだよ」
「俺だって…」
「日本では自分の考えてる事をあんまりヒトに言わないのが美徳なんだ」
「お前、ずるいよ。いつもジョーカー隠し持ってるみたいな態度で、どこか心を許してくれてなくて。ルージは日本人だけど、いつも素直に自分の考えてること言ってたぜ。恥ずかしげもなく、よく言えるなっていうことまで正直に言ってた」
 ベッドの横の床に座った寺本が黙った。
「ルージはどうなるんだよ。いったい何があったんだよ」
「…その話はもうしない約束だよ」
 寺本は枕元のオートバイの写真と海の写真を大きな黒いビニール袋の中に捨てた。下を向けて捨てた。
「ヒールは? 奴とはヨリが戻った訳じゃなかったんだろ? ルージが番犬って言ってたって、デビーが」
「留守中誰も入り込まないようにね」
「同じ男、二回傷付けてどうするんだよ」
 寺本が振り返ると、ボブがゆっくりと寝室に入って来た。寺本はボブから目を逸らさず、静かに立ち上がった。
「……俺じゃ駄目だったのか?」
「………」
「誰でもよかったんだろ? 俺じゃ、番犬にはなれなかったのか?」
「ボブ……」
「俺だったら番犬でもよかったんだぜ。ルージを忘れるための道具でいい、その場凌ぎの慰み物でも何でもいい、それでお前と…」
「やめてよ、ボブ」
「お前はいつもデビーと一緒だったけど、俺だってお前とずっと一緒にいたさ」
「そうだね。君にはホント、世話になったね。いろんな所へ連れてってもらったし。クルーズとか、ハンティングとか………滝とか…」
「ごめんな、見栄張って、友達にお前のこと恋人だとか紹介して」
「僕の方こそごめんね、何度もコブラツイスト掛けて」
 寺本が笑う。
「いや、あれは結構よかったぜ。4の字固めは嫌だけどな」
 ボブも笑う。
「君には本当に感謝してるよ。テキサスに遊びに来てね。今度は僕がいろいろ連れて行く番だ」
「俺だって…」
 ボブは寺本の頬に両手を当てた。
 ボブの左手の指先はとても硬い。弦を押さえる指に慢性的にタコができているのだ。寺本より大きなその手は、すっぽりと寺本の顔を包む。そしてその手は静かに下りて、優しく首をなでる。
 目を閉じると滝田に触れられているようだ。幸せな頃に戻ったようだ。呼吸が荒くなった。
 その指が下唇に触れた。でもその指は白墨の匂いがしない。
 別の匂いがする。
「俺だって…一番肝心なことは、言えなかったさ」
 目を開けると、それは左の首に赤いアザのある男だった。
「…I love you」
《アイラブユー》
「やめてよ!」
 寺本はボブの手を振り払う。
「俺ならお前を幸せにできるよ、一生守ってやるよ、絶対に寂しい思いはさせないから」
「やめてってば!」
「愛してくれなくてもいいんだ、俺と一緒に居てさえくれれば」
 必死にボブを振り払おうとする寺本。その寺本の両手首を簡単に取り押さえてしまうボブの太い腕。諦めて大人しくなる寺本。
「…駄目なんだよ、ボブ」
「どうして…」
「だって」
「………」
「だって本気で愛し合っちゃったら、もう友達には戻れないじゃないか」
「サトル…」
 幸せは嫌いだ。幸せの後には必ず…
 寺本は腕を伸ばしてボブの頭を思い切り抱き締め、その丸い後頭部を何度もなでた。やっといい具合に髪が生え揃い、程よいスポーツ刈りになった。ボブの頭は丸くてとても形が良い。ボールを抱えているみたいに気持ちがいい。
「君とは一生友達でいたいから、だから、ごめんね、ボブ、本当に、ごめんね」
 ボブも寺本をしっかりと抱いた。
「お前、またいつ死んでもいいなんて言い出すなよ」
「ボブ……」
「避けられない病気や事故なら仕方ないけど、そうじゃないんだから。あんな薄いゴム一枚で避けられるものなんだから」
 ボブの頭を抱き締めながら、寺本は小さくうなずいた。
「餞別の言葉が『ゴム着けろ』だなんて、僕ってホント、情けないね」
「情けないのは俺の方だよ。これでついに、決定的に失恋だ」



 マサハルとその母が、寺本の家へ最後の挨拶に訪れた。家の前には既に「入居者募集」の看板が立てられている。リビングには積み重ねられた段ボール箱とグランドピアノが二台置いてあるだけだ。家具類は既にすべてガレージセールで売ってしまった。
「本当にお世話になりましたわ、先生には」
「とんでもないです。お世話になったのはこちらの方ですよ」
「…これだけですの? お荷物は」
 あまりに少ない荷物を見て、マサハルの母が首を傾げる。
「ええ。大きい物は向こうで新しいのを買い直した方が安上がりなんですよ。大した物もなかったですし。さすがにグランド二台は買い換えられないので持って行きますけど」
 寺本が笑って言うと、マサハルの母も手を口に当てて上品に笑った。
「残念だわ。ホントに行ってしまわれるんですのね」
「すみません、急なことで」
「そんな、仕方ありませんわ。後任の先生までお世話下さって、感謝しております」
「本当に申し訳ないです。新しい先生はいかがですか」
「とっても良い方ですわ。もちろん寺本先生ほどじゃありませんけど。新しい住所、決まったら教えて下さいね。絶対ですよ。マサハル、マサハルってば。こっちに来てきちんと挨拶なさい」
 少し離れた所から寺本を見ていたマサハルが、大きなバーグドルフ・グッドマンの紙袋を持って小走りに近付いて来た。
「先生、これ、つまらない物ですが。今まで本当にお世話になりました」
 マサハルはペコンと頭を下げた。
「そんな、悪いよ」
「ほんの気持ちなんですよ。マサハルは先生が大好きだったんです。受け取ってやって下さいな。薄手のジャケットとデッキシューズですの」
 この人は寺本の服のサイズから靴のサイズまですべて知っている。まともな服は、思えばほとんどこの人に買って貰った物ではないか。食事にもよく招待して貰った。具合が悪い時に薬やおかずを届けてくれたのもこの人だ。リサイタルのチケットを積極的に裁いてくれたのもこの人だった。
 親切にして貰う事に慣れ過ぎて、感謝する事に疎くなっていた。
「……すみません」
「まあ、そんな悲しそうな顔なさらないで。私、涙が出ちゃいますわ」
 支店長夫人は、本当に少し涙ぐんでいる。
「これからの季節、南部とはいえ朝晩は冷えますから、油断するとお風邪を召しますわよ。あちらでは、ここほど自由に日本の物は手に入りませんから、日本のレトルト食品も数種類入ってます。最近のレトルトって捨てたもんじゃないんですのよ。あと紀伊國屋で見つけた先生のお好きな日本の車の雑誌と、それから宇治から取り寄せたお茶に…」
「ママ、ちょっと二人だけにしてくれる?」
 そう言われてマサハルの母は一瞬不満そうな顔をしたが、渋々と車の方へ戻って行った。
「先生、お元気で」
 母親を牽制しながらマサハルが声を発した。
「ありがとう。君も頑張ってね。勉強も大変だろうけど、できるだけ長くピアノを続けて欲しいな。いつかまた会えたら、是非君のピアノを聴かせてよ」
「もちろんです。受験が終わったら、テキサスに遊びに行っていいですか?」
「あ、それは嬉しいね。是非来てよ」
 マサハルの母親が運転席の前に立って興味深そうにこっちを見ている。内緒話をしているように見えるのだろうか。
 それからマサハルは、声を潜めて言った。
「ぼく、先生の味方です」
「え?」
「赤いマスタング」
「……………」
 更に声を潜めた。
「何があったか知りませんが、心は自由ですから。ここは自由の国アメリカです。ぼくにできることがあったら、いつでも言って下さい。紙袋の中にぼくのメールアドレスが入ってます。母は絶対に見ないアドレスです」
 マサハルから差し出された紙袋を寺本は両手で受け取った。
「ありがとう、でもね……」
 マサハルを真っ直ぐに見つめ、大きく息を吸って、吐きながら言った。
「もう終わったんだよ…」
 そう口にすると、本当に終わったという気持ちになって、ただ力なく笑うことしかできなかった。
「大人の事情はよく解りませんが、ホント、遠慮しないでぼくに相談して下さいね」
 面倒見の良い小学生の言葉が温かく聞こえ、黙ってうなずいた。
「あと、後任の先生を紹介して頂いてなんなんですけど、実はぼく多分、来年早々日本に帰るんです、中学受験の準備で」
「そうなの。大変だね」
「兄で失敗してるから、ぼくは早めに日本に帰って、特別進学コースに入った方がいいという結論に達したらしいです、家族会議で。こっちにいると、どうしても現地校の勉強に時間を取られちゃって」
「ああ、君、優秀なんだってね。御三家とか受けるわけ?」
 マサハルが黙った。
 寺本もハッとして黙る。
「本当にテキサスから手紙下さいますか?」
「…住所が決まったらすぐに葉書を出すよ」
「お忙しくて来年になっちゃっても、父と兄はまだここにいますから、今の住所に葉書下さい。メールでもいいです。あ、そしたらママが怒るか」
 マサハルは舌を出した。
「お兄さんは残るの?」
「はい。こっちのハイスクールを続けるんですよ。これでやっと兄から逃げられます」
「………え?」
 寺本は丸い目でマサハルを見た。
「家族中が兄に気を遣ってピリピリしちゃって、もういたたまれません。兄は学校でも何かと問題起こしてくるし、お蔭でぼくはほったらかしです」
「……君は、それで平気なの?」
 マサハルは驚いたように寺本を見て、それから少し焦ったように言った。
「平気って…誤解しないで下さい。幼児虐待だなんて通報しないで下さいよ。ここじゃシャレになりませんから」
「あ、ああ、そういう意味じゃなくて…」
「ほったらかしって言っても、ぼくだって十分大事にしてもらってますよ。親の愛を単純に二等分しろなんて、そんなのおかしな話です。兄弟って、結局手が掛からない方が放っておかれるんですよね」
 マサハルは両手の平を上に向けて肩をすくめた。
「君は大人だね」
「世の中そんなものです。で、手が掛からない方が、手が掛かる方のはけ口になるんです。親が愛してくれない、友達が愛してくれない、ガールフレンドが愛してくれない。兄はいつもぼくにそんなこと言ってます。あれだけ愛されてて、何言ってるんだって感じですよ。夜中に突然ぼくの部屋に来て、一発殴らせろとか言うこともあるんですよ」
 マサハルはクスッと笑って、それから急に真顔になった。
「あ、もちろん本当に殴ったりはしませんよ。通報しないで下さいね」
 寺本は静かに笑って首を振った。
「一通り悪態吐いて、ああ、すっきりした、宿題しようって、自分の部屋に戻って行くんです。いい気なもんです」
 マサハルはまた両手の平を上に向けて肩をすくめ、今度は首をゆっくりと左右に振った。
「兄は食いしん坊なんです。食べても食べても満腹にならないんですよ。困った人です」
 マサハルは悪戯っぽく笑った。
「あ、すみません。今、先生がぼくのはけ口になっちゃってますね。お聞き苦しいでしょう」
 寺本はまた首を振った。
「…君は…そんなお兄さんを許してるの?」
「許すなんて大袈裟ですよ。あんな兄ですけど、ぼく、好きなんですよ、結構」
 寺本はその大人のような子供を抱き寄せた。しっかりと胸に包んだ。
 胸に包んで、空を仰いだ。
「…でも僕は……」
「はい?」
《お兄ちゃんが悟のパパになってやる》
「………元気でね」
「はい、先生も。葉書下さいね」
「必ず書くよ」
「あの先生、間もなく帰国なんです。生徒にも正式に通達がありました」
「…………」
「何か伝言があれば、ぼくが」
 マサハルは寺本の腕の中で、覗き込むように上目遣いで寺本を見ている。口調は大人びているが、厚い眼鏡の奥の瞳はまだあどけない少年だ。頬が赤くて丸く膨らんでいるところも幼さを残している。
 五年生。まだ子供の匂いがする。男の子って何でできてるんだっけ。カエル、かたつむり、それから子犬のしっぽ。そんなのでできているって、マザーグースが言っていた。本当にそんな感じだ。髪はおひさまの匂いがする。
 そう、まだ、小学五年生。
 寺本は何も答えなかった。マサハルの体をゆっくりと離した。
 子熊のぬいぐるみのような少年は、もう一度寺本に一瞬抱き付くと、母の元へと走って行った。母親は寺本に向かって一度大きく頭を下げ、レクサスの運転席に乗り込んだ。


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