射手座の男/赤いマスタング

18禁のBL小説です。音大のバイオリン専攻大学院生×ピアノ科学生の恋愛と、ニューヨークに住む30代日本人男性二人の恋愛の2本を載せています。※移転しました。移転先はプロフィールの下に。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

夏 1989 前編

     一

 ブォア、ブォア。
 キュルキュル、キュー。
 ヒュルーン、ドン、ドン。
 楽器の音を文字で表現するのは至難の業だ。そう言えば『山の音楽家』とかいう童謡があったっけ。バイオリンは「キュキュキュッキュッキュッ」、太鼓は「ポコポンポンポン」、ピアノは「ポロポロンポロンポロン」だったと思う。結構いい線行っているかもしれない。
 そんな事を考えながら甲馬は、茹だるように暑いスタジオでバイオリンを顎に挟んだまま、まどろんでいた。楽器の顎当てと顎の間に挟んだタオルも汗でねっちょりだ。気持ち悪い。
 甲馬は今、大学オケの夏合宿で鎌倉の由比ヶ浜のスタジオ付きの合宿所に来ている。彼は東京にある音大の弦楽器科三年だ。今日は合宿の初日で、昼過ぎに現地集合したオケ団員たちは早速スタジオ入りした。各自パート練習をしながらオケを指導する教授を待っているのだ。
「甲馬くん、暑いんだけど」
 チェロの女が赤い顔で訴える。
「…ああ、暑いな」
 第一コンサート・マスターを務める甲馬はこのオケのいわば責任者だ。宿の管理人と冷房の設定温度交渉をしに行くのは恐らく甲馬の役目だろう。壁にあるエアコンのコントローラーのディスプレイには、室温は二十八度と表示されているのだが、これを二十五度に下げてよいものだろうか。
 合宿所にチェックインした時、管理人から「省エネに心掛けて下さいね」と念を押された。「二十八度より下げないで下さいね」とも言われた。つまりは「これで我慢して下さいね」ということか。
「なあ、コンマス、暑いよ」
「もう耐えられない…」
「…ああ、そうだな」
 昔から交渉事は苦手だ。下出に出るのも苦手だ。
 今年の夏は残暑が厳しい。もう八月も中旬を過ぎているというのに、まだこの蒸し暑さだ。おまけに窓のないスタジオの暑さと言ったら…。
「ねえ、甲馬くんってばぁ」
 解ってるよ、解ってるんだってば。だからそんな色っぽい声を出すな。
 めまいがする。
「みんな暑いって言ってるでしょ? 聞こえてないの?」
 きつい口調でそう言ったのは左隣に座る第二コンマスの女だ。眼鏡の奥から鋭い目で甲馬を睨んでいる。甲馬の顔は、自慢じゃないが自分でもかなり人相の悪い顔だと思っているが、この女も相当気の強そうな顔をしている。
 するとその時、教授が総譜と指揮棒を持って、颯爽とスタジオに入って来た。いつも大学では高そうな絹の背広を着てダンディズムを気取っているが、この猛暑の合宿所の中、さすがに半袖の綿シャツにスラックスというラフな井出達だ。
 そして教授のすぐ後ろを背の高い細い奴がついて来る。
 ピアノ科二年の寺本悟だ。
 やたら姿勢が良くて、背筋が真っ直ぐに伸びている。
 教授が台の上に上がると、寺本は台と甲馬の真ん中辺りに立った。手には楽譜を持っている。前屈みに座った甲馬の目の前に寺本の尻が来た。男のくせにホットパンツの尻に肉が付いて丸く膨らんでやがる。すましてオケの方を向いてやがる。
 台の上の教授が指揮棒で譜面台をコツコツと叩くと、みなおしゃべりをやめ指揮者の方を向いた。
「みなさん、こんにちは」
「こんにちはぁ」
 学生たちは大きな声を張り上げる。
「夏の定期演奏会は大成功でしたね。ご苦労様でした」
 みな笑顔でバタバタと足を鳴らした。
「これから十日間、頑張りましょうね」
「はぁい」
 まるで幼稚園児のように声を揃えて答える。
「次の年末の演奏会は交響曲と協奏曲、ひとつずつです。楽譜は…渡ってますね。最初の交響曲、ピアノのパートが入ります。ピアノ科二年の寺本くんに頼みました」
 教授は隣に立つ寺本に目配せした。
「寺本です。オケは初めてなので、よろしくお願いします」
 寺本がオケに向かってお辞儀をすると、再度バタバタとみんなの足が鳴る。女子団員があちこちで顔を見合わせて「カワイイ」と小声で言うのが聞こえた。
 次に寺本は指揮者に向かってお辞儀をした。膨らんだ尻の線がくっきり見えた。
 やっぱり丸いぞ、こいつの尻。
 野郎の尻をじっと見つめるなんて、オレの脳ミソは完全に溶けている。
 ……暑い。
 寺本は次にクルッと振り返って甲馬を見た。ギョッとして背筋が伸びる。こちらを向いた寺本は甲馬に向かってもう一度お辞儀をすると、第一バイオリンの外側を通って後方のピアノへ向かった。途中、甲馬の後ろに座る弦のひとつ後輩である広瀬と目が合い、笑顔で軽く手を振った。広瀬も手を振る。この二人はやたらと仲が良い。いいトシをした男同士のクセに連れションをしているのを見ることもよくある。まるで仲良し女子高生のようだ。

「だからさ、広瀬、お前から合宿に誘ってくれよ、寺本のこと」
 甲馬が混み合った学食でそう頼んだのは、まだ梅雨の明けないじめじめとした七月の初めである。
「だってあいつ、ピアノ科ですよ。オケで何弾くんですか?」
 広瀬はその日から始まった人気のメニュー、冷やし中華を頬張っていた。
「次の演奏会、ピアノのパートのある曲に決まったんだ。だからピアノ科から誰か呼んで来なきゃならないんだよ。あいつならお前、頼みやすいだろ?」
 甲馬の昼食はいつもAランチだ。
「コンマさんが直々に頼んだ方がいいんじゃないですか? 先生を通してとか」
 甲馬は親しい仲間からは「コンマ」と呼ばれている。名前の「こうま」と「コンマス」を掛けているのだ。
「先生通して断られたらアウトだろ? 直接本人に頼んでウンって言わせて既成事実を作っちゃうんだよ」
「既成事実…ですか? なんかいやらしい言い方だなあ。野郎相手に使いますかね、普通」
「え、そいつ男なの? せっかくピアノ科から呼ぶなら可愛い女の子の方がいいじゃん。別に誰でもいいんだろ?」
 甲馬の隣でざる蕎麦を食べながらそう口を出したのは、大学オケでチューバを吹いている管楽器科三年の土井だ。大柄で肉付きの良い、平たく言えばデブだ。甲馬と土井は音大附属の小学校以来の同級生で、小学生の頃は連れションもした仲だ。
「そうですよ、ピアノ科、美人が多いし、こんな機会滅多にありませんから。タカハシさんあたり、どうですかね」
 土井の向かいに座った管楽器科の二年生である吉村がにやけながら興奮口調で言った。吉村はオケでオーボエを吹く小柄な男だ。土井と吉村も仲が良く、その対照的な体型のせいか、二人が並んでいるとまるで漫才コンビのようで、黙っているだけでギャグになると甲馬は思っている。
「コンマさんが誘えば、タカハシさん、喜んで来てくれますよ」
 吉村の口元が更に緩む。
「ああ、間違いなく来るな」
 土井もうなずく。
「じゃ、タカハシさんで決まりですね」
「おい、吉村、勝手に結論付けてんじゃねえよ。広瀬が寺本連れて来るんだよ」
「どうしてその寺本って奴なんですか?」
「そうだよ。随分こだわるなあ」
 吉村に続いて土井も抗議する。
「だって寺本って可愛いんだもん」
 甲馬が声を潜めて言うと、土井は眉間にシワを寄せておもむろに嫌な顔をした。
「可愛い…って、お前、それ、危険発言だぞ」
「思いっきり危険な香りがします」と、吉村。
「だってあいつ、危険な男なんだよ」
 すると土井は緑茶を飲もうとした手を止めて甲馬を見た。
「…あ、もしかして寺本って、『ピアノ科のオカマ』? あのやたら色男の」
 広瀬の顔が引きつる。
「そうそう、そのオカマの寺本。やたらの女の子よりずっと可愛いぜ」
 すると広瀬はかなり怒った口調で訴えた。
「…ちょっと待って下さいよ。あいつ、オカマなんかじゃないですよ。それに、男に向かって可愛いとか、いくらコンマさんでも、そういうの失礼ですよ」
「広瀬のおホモ達だ」
 甲馬が言うと、土井は驚いて広瀬を見た。
「……広瀬ってホモだったの?」
 怒り出すかと思われた広瀬は、案外冷静にさりげなく前髪に手を当てて言った。
「ぼく、ちゃんとカノジョいますから」
「うそっ」
 土井が大声を出すと、広瀬は自慢げに顎を上げた。
「ホントですよ。今ラブ・パワー全開です」
「タカハシはいいのかよ」
 甲馬の無神経な発言に顔を赤くした広瀬が、
「……い、いいも何も…彼女は…ぼくには高嶺の……、よ、よく言えますね、そういうことがっ」と怒り出す。
「とにかくめでたいじゃん。今度会わせろよ」
「やめとけ、やめとけ。絶対ちょっかい出されるぞ」
 土井が広瀬の肩を叩いて言った。
「間違いなく出しますね、コンマさんなら」
「野獣だもんな」
 土井と吉村が顔を見合わせて笑った。
「冗談じゃねえよ。広瀬のお古なんて真っ平ゴメンクダサイマセだ」
「違いますよ。お古じゃないですよ。逆ですよ」
「え?」と甲馬。
「じゃ、コンマのお古?」と土井。
「ウソッ」と吉村。
「ホントですよ。コンマさんは憶えてないだろうけどって、言ってました。名前、言いましょうか?」
 甲馬は首をひねりながら「いや、聞いてもどうせ解んない」と言って煙草を一本口にくわえた。
「ここ、禁煙ですよ」
「解ってるよ。火は点けねえよ」
「お前、それ知っててその子と付き合い始めたの?」
 土井が呆れて言うと、広瀬は胸に手を当てて夢見気分の声を出した。
「ええ、むしろ光栄です。なんだか、コンマさんの本当の弟になれたような気がして…」
 甲馬の口から煙草が飛ぶ。土井と吉村は顔を赤くして下を向き、甲馬は広瀬の椅子を蹴飛ばして叫んだ。
「気持ち悪いこと言うな」
「こいつ、やっぱり理解できない」
 土井が真剣に気持ち悪そうな顔で言う。
「仕方ないですよ、広瀬ですから」
 と土井に耳打ちした吉村は、次に広瀬に向かって言った。
「でもさ、広瀬、おれも寺本って奴のその噂、聞いたことあるよ。お前、やばいんじゃない? いつも一緒にいると、お前まで…」
 いよいよ広瀬は本気で怒り始め、声を更に大きくして否定する。
「何だよ、吉村まで。あいつ、別に普通だよ。酒強いし、よく食べるし、第一でかいし」
「でかいの?」
 甲馬がかなり真剣に広瀬に聞く。
「でかいですよ。コンマさんとあんまり変わんないでしょうが」
「平常時で?」
「もお、身長がですよ、下は知りませんよ」
 広瀬は怒り疲れ、ほとほと呆れた顔で冷やし中華を食べ続けている。
「だからさ、合宿に誘ってくれよ。下はオレが風呂で確かめてやるから」
「まったくもう、あんなでかいオカマ、いるわけないでしょ」
「ま、確かにな。でも細いじゃん」
「コンマさんみたいに筋肉質の音大生の方が珍しいと思いますけど」
「そりゃあな、オレほど逞しくてかっこいい音大生は、そうそういるもんじゃないからな」
「自分で言うな、恐い顔して」
 土井がすかさず突っ込みを入れる。
「うるせえよ。この強面がまたかえってモテるんだ。でさ、モテ過ぎちゃってさ、女はいささか食傷気味なんだよな」
「だから男に走ることにしたんですか?」
 今度突っ込みを入れたのは広瀬だ。
「そういう訳じゃないけどさ…」
「でも、もしかしたら、あいつ、コンマさんより女の子にモテるかもしれませんよ」
「………え…」
 自分よりモテると聞いて黙っていられる甲馬ではない。
「だってあいつ、少女漫画から出てきたみたいな男ですもん」
 少女漫画と聞いて、心中穏やかではなくなった。
「…オレだって……オ…オスカルみたいじゃん」
「オスカルは女ですよ」
「ウソッ」
 男の格好をしているのに、あれは女なのか? コスプレか?
「ま、いいや。とにかくそのピアノ科のオスカル、よろしくな、広瀬」
 Aランチを食べ終えた甲馬は椅子の背もたれに仰け反って言った。
「やめとけよ。やばいよ。合宿にオカマなんて連れてったら、軒並みホられちゃうよ」
 と土井が笑いながら言うと、吉村もうなずきながら言った。
「そうですよ。オカマって結構怖いって言いますよ。オカマなめると痛い目に会うそうです」
「だからさ、その前にホッちゃうんだよ」
「マジですか? コンマさん、うわっ」
「うわっ」
 驚いた吉村が醤油差しを倒してしまい、醤油がテーブルを伝い広瀬のジーンズの膝に垂れた。広瀬は慌てて立ち上がり、吉村は倒れた醤油指しを起こした拍子に今度は指が醤油だらけになった。
「冗談だよ、馬鹿。早く拭け」
 広瀬と吉村は、甲馬が投げ付けた卓布巾でこぼれた醤油を拭きながら、「シャレになんないよ」とブツブツ文句を垂れた。

 結局、合宿所の管理人との室温交渉は成立せず、汗だくのままオケは初日午後の練習を終えた。
 オケの練習が終わっても学生たちには各自の楽器の個人的な練習がある。それぞれ宿の部屋や廊下やベランダで思い思いに練習を始めた。
 寺本が練習できるのはピアノのある部屋だけだ。先程オケの練習をしたスタジオだ。
 寺本がオケの合宿に付き合って十日間鎌倉に行くことを担当教授に告げた時、教授はおもむろに嫌な顔をした。しかし既に受けてしまった後だと聞くと、今年だけという条件で渋々十日間の「休暇」を与えてくれたのだった。目を掛けてやっている寺本が、勝手にオケの仕事を請けた事が教授には面白くない。
「そういうのを引き受けるのはね、今度から私に相談してからにして下さいね。そもそも私を通さないっていう方が非常識ですけど」
 初老の紳士風の教授は眼鏡をずらしてそう言い、合宿中に消化すべき宿題をイジメかと思うほど大量に与えてくれた。
 甲馬は楽器を持って、寺本が宿題をしているスタジオへ入った。
「よお、寺本、どうだった? 初めてのオーケストラは」
「楽しかったですよ。ピアノ科にいるとみんなで弾く機会ってなかなかないですから」
 寺本はピアノの手を止め、体ごと甲馬の方を向き、白い歯を見せて微笑んだ。頬にシワができた。甲馬もニッコリと微笑もうと思ったが、やめた。笑った時によく「恐い」と言われるからだ。顔が恐いのは生まれつきだ。
 寺本は、先程と同じメッシュの白い半袖シャツにカーキー色のホットパンツをはいている。ふくらはぎは細くすねの毛は薄い。腕にも毛が生えておらず、夏だというのに日焼けもしていない。
「ショスタコービッチとか、嫌いか?」
 年末の演奏会ではこのロシアの作曲家の交響曲の五番を弾く。ピアノパートのある二十世紀の曲だ。
「いえ、僕は別に現代曲に偏見はないですよ」
「ピアノ、後ろにあるから、あんまり目立たないな」
 自分が目立つのが好きな甲馬は、つい他人も目立ちたいのではないかと考えてしまう。
「僕は別に目立とうなんて思ってないですから」
 確かに大人しくて目立たない男だ。こいつとは音大附属の小学校か、少なくとも中学からは確実に同じ学校だ。しかしあまり甲馬の記憶にない。広瀬といつも一緒にいた奴だから、キャンパスや駅で会えば挨拶くらいはしていたと思うが、名前はつい最近まで知らなかった。しかし一度目に付くと、やたらに気になる男である。
「寺本さぁ、カノジョいるの?」
「いませんよ」
「でも女の子にモテるんだろ?」
「モテませんよ」
「…へえ」
 甲馬は寺本の顔をしげしげと見た。髪は短く切ってあり、特になよなよしているという風にも見えない。白くてきれいな肌をしている。まつ毛が長く、鼻筋が真っ直ぐに通っていて、顎が少し尖っていて、口元はまだ少しあどけない。当然髭は生えるのだろうが、剃った後の黒い点が見当たらない。男臭さは感じられないが、かといって噂されているような女っぽさは微塵もない。不思議なほど中性的な男だ。
「あの…ピアノ弾いてもいいですか?」
「…ああ、ごめん、邪魔して」
「すみません。宿題が多くて」
「悪かったな、合宿なんか付き合わせて」
「いいえ。いい経験ですよ。楽しいし」
 寺本は再び鍵盤に指を走らせ始めた。甲馬はスタジオの隅の椅子に座り、黙って寺本を眺めた。
 オケのピアノパートに寺本を選んだ理由を、彼は特に問わなかった。広瀬の友達。それだけで納得したようだ。
 実はピアノパートが必要だから寺本を呼んだのではない。寺本を呼びたいからピアノパートのある曲にしたのだ。
 年末の演奏会の曲を選ぶに当たって、ピアノパートのある現代曲はどうかと教授に提案したのは甲馬だった。オケの定期演奏会はきちんとチケット代を取る演奏会なので、ピアノ協奏曲ならソロはそれなりの名のある弾き手を呼んで来なくてはならない。でもオケの一部であるピアノパートを弾くくらいであれば、うちの音大レベルならピアノ科の学生で十分だ。寺本を呼ぶにはこうするしかなかった。
 広瀬といつも一緒にいるこいつのことが気になり始めたのはつい最近だ。
 ピアノ科のオカマ。
 誰もがそう呼んでいた訳ではない。一部の噂好きな奴らだけだ。
 学食でその話題になった時、甲馬の同級生の一人が「でもあいつ、やたらの女より美人だよな」と言い出したのがきっかけだったと思う。男を「美人」と形容するものだろうかと不思議に思ったものだ。そのうち「あいつと二人っきりで、雪山で遭難したら…」、「あいつと二人っきりで、無人島に流されたら…」などと言い始め、それ以来こいつを見る目が少し変わったのは確かだ。
 寺本はさっきからずっと同じ曲を弾いている。フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』だ。パガニーニのバイオリン曲を主題にして、パガニーニに憧れたリストが書いたピアノの難曲だ。ひと通り弾いた後、彼は最後の部分を何度も練習している。左手が低音部に飛ぶところで音を外してしまうらしい。速度を落として何度も音を確認する。しかし速い速度に戻すとまた外してしまう。その繰り返しだ。
 甲馬はピアノのことはよく解らない。多少は弾くが、やはりよく解らない。寺本の表情は真剣そのもので、甲馬がここに居ることは忘れているかのようだ。
 しばらくすると、寺本は肩で大きく息をした。両手の指を絡ませ手の平を上にして高く上げ、背中を反らせて大きく伸びをした。白い脇腹が見えた。目を閉じて上を向き、息を吐くように小さく声を出す。
「あ……」
 その声に、甲馬の心臓が激しく鳴った。椅子が少し動き、その音に驚いた寺本がこっちを向いた。
「…あ、ごめん、オレ、もう行くよ、うん」
 寺本は黙って甲馬を見ている。
 野郎の喘ぎ声に反応してしまった自分が恥ずかしい。まだ心臓が高鳴っている。
「悪かったな、邪魔して、うん」
 甲馬は後ずさりしながらスタジオを出た。
 オレは間違いなく、熱中症だ。



「コ・ン・マ、さん」
「ん?」
「じゃじゃーん」
 吉村がボストンバッグの中からVHSのビデオデッキを取り出した。
「お、持って来たな。早くセットしろ」
 十畳の和室に、三年の甲馬と土井、二年の広瀬、吉村、そして寺本の五人が布団を敷いた。この宿の客室は、まずドアを入ってすぐの場所に二畳ほどの板の間があり、その奥に畳の部屋があるという典型的な民宿の部屋の造りだ。板の間の左手には洗面所、更にその奥がトイレになっていて、板の間と和室の間は障子で仕切られている。
「お前、そんなのわざわざ持って来たの?」
 土井が呆れ声で言うと、吉村が腕組みをして答えた。
「これがないと眠れなくて」
「エラそうに言うことかよ」
「先生に見つかったら怒られるよ」
 広瀬の優等生発言に、甲馬が鼻で笑う。
「高校の修学旅行じゃないんだから。オレたち成人だぜ、成人。成人が成人映画観て何が悪いんだよ」
「ぼくはまだ十九です」
「それじゃ広瀬は観るな。おやすみ、未成年。ほら吉村、何やってんだよ。早く再生しろよ」
 四つん這いでビデオデッキのボタンを操作する吉村の尻を、甲馬は右足で蹴飛ばした。
「ちょっと…これ…巻き戻ってない」
「タイトルは?」
「洗濯屋ゴンちゃん、真昼の団地妻編」
 吉村がみんなにビデオのパッケージを見せた。
「お、ゴンちゃんか、懐かしいな。その節はお世話になりました」
 甲馬の弾んだ声に対して、土井の不満そうな声。
「今更ゴンちゃんかよ」
「恐れ多いぞ。家庭用ビデオの普及に貢献した歴史に残る不朽の名作だ」
 甲馬がテレビの前で正座しながら言った。
「VHSがベータに勝った陰の立役者ですもんね」
 吉村がほくそ笑みながら言う。それでも土井は興味なさそうな顔だ。
「おれ、ゴンちゃんは擦り切れるほど観ちゃったからなあ」
「土井さん、これ、無修正なんですよ」
「…………」
 土井の表情が変わる。
「ゴンちゃんって何だよ、吉村」
「広瀬、観たことないの?」
「ない」
「ゴンちゃん知らなきゃ男じゃねえよ」
「そうなんですか?」
 甲馬の言葉にショックを受けた広瀬に吉村が説明を始める。
「面白いんだよ。クリーニング屋のゴンちゃんが、いろんな女の子とやりまくるんだ…」
 更に説明を加えようとした吉村は、部屋の隅にいる寺本と目が合った。
「寺本も観ようよ、ゴンちゃん」
「…あ、うん」
 甲馬も振り向いて寺本を見た。風呂上りで首にタオルを巻き、短い髪はまだ濡れている。こういう色男はドライヤーできちんと乾かすものかと思ったが、こいつはそのまま寝てしまうつもりらしい。壁にもたれ掛かって缶ビールを飲んでいる。
「広瀬は観ないんだろ?」
 今度は広瀬を蹴飛ばして甲馬が言った。
「観ますよ。成人映画は十八歳から観ていいんです。寺本、そこから見えるか?」
「うん、見えるよ」

「マジかよ…、ホントにモザイクなしだぜ」
「目、細めなくていいから楽でしょ? 土井さん」
「でもおれ、つい癖で細めちゃうよ」
「きれいなケツでしょ? いいケツでしょ?」
「吉村、お前、ホント、ケツ好きだもんな」
「こ、これがゴンちゃんですか…」
 二十歳前後の血の気の多い学生たちは画面に釘付けになった。外に音が漏れないようにボリュームを下げたので、それを聞こうとみながじわじわとテレビに近寄って来る。
「うわ、もう駄目だ」
 広瀬がたまらずトイレに駆けて行くと、吉村がモゾモゾと動き始めた。甲馬が焦る。
「馬鹿、お前、中学生じゃあるまいし、ここでするのかよ」
「いいじゃないですか、男同士なんだし」
 土井がふと後ろを振り返った。
 寺本は一番窓側の布団に入って既に寝ている。いつまでビデオを観ていたのか、それとも最初から観ていなかったのか、それは解らない。
「こいつ、やっぱりオカマだ」
 寺本を見つめて土井が言った。
「ゴンちゃん観ないなんて、男じゃないよ」
 残りの二人も土井の視線を追い、真上を向いて眠る寺本を見た。掛け布団が上下に動くほどに寝息を立てている。
 三人はゴクリと唾を飲んだ。
「…寝てる、よな?」
「…寝てる、さ」
 彼らは四つ足で這って寺本の近くまで来た。
「まつ毛がバサバサ生えてるな」と甲馬。
「団地妻よりきれいだ」と吉村。
「なんか色っぽいぞ」と土井。
 それから三人は黙った。
 団地妻の喘ぎ声だけが静かに部屋に響く。その声に興奮したのか、目の前の寝顔に興奮したのか、彼らにも解らなかった。部屋の熱気で、背中に雫が流れ落ちるのが解った。
 三人はそのまましばらくその寝顔を見ていたが、やがて土井が甲馬と吉村の顔を交互に見ながら口元に苦笑いを浮かべて言った。
「…おい……冗談だろ?」
 二人はハッとして土井を見る。
「そ、そうですよ。いわゆる色男だってだけでしょ?」
 吉村もごまかすように苦笑する。
「コンマがホッちゃおうとか言うから悪いんだよ」
「あ…ああ………。ほら、続き、観ようぜ」
 トイレから広瀬の「う」という声が聞こえた。



 次の日の朝、部屋で一番遅く起きたのは、夕べ一番早く寝た寺本だった。
「寺本、もう起きろよ。朝メシ始まっちゃうぞ」
 既に着替え終わった広瀬が寺本を揺すると、寺本は蒼白い顔で半分目を開けた。
「……あれ、もうそんな時間?」
「お前、顔が蒼いよ」
「そう?」
 目をこすりながら、気だるそうにゆっくりと上半身を起こした。
「低血圧だから。今朝は特に低いって感じがする」
 かすれた声でむにゃむにゃと話す寺本に、他の男たちの斜めの視線が向けられた。
「おはようございます」
 寺本が笑顔で言った。寝ぼけた声だ。
「夕べはすみませんでした。疲れてて、先に寝ちゃいました」
「いや、いいんだよ。慣れてないから疲れたろ」
 甲馬は布団を畳みながら視線を落として寺本の顎を見つめた。うっすらと髭が生えている。やはりオカマでも髭は生えるのだ。


      二

 でかいかどうか、風呂場で確かめる。甲馬はそう言った。言ったからには実行に移さなくてはならない。
 合宿所の風呂場のドアを開けると、中は三十人以上はいるであろう学生達でごった返していた。甲馬はタオルで股間を隠し、寺本の斜め後ろの洗い場で背を向けて腰を下ろした。鏡越しに寺本を見る。
 白い背中だ。一人で静かにシャンプーしている。細い体ではあるが意外に筋肉が付いている。肩の辺りに筋肉が集中し、二の腕が結構太い。椅子に触れた尻の割れ目が見える。振り向いて直接見たいと思ったが、それも変だ。
 寺本の隣の男たちが、お互いの股間を指差して「デカイ」だの「情けない」だのと言い始めた。それに甲馬の隣の男たちも振り向いて加わり、ちょっとした騒ぎになった。野郎が裸でじゃれ合う姿など見たくもないのに。
 寺本は、お互い気心の知れたオケ仲間に交ざって一緒に騒ぐことはまだはばかられるのだろう。騒ぎに参加することなく、体を洗い終わり、立ち上がって湯船に向かった。他の男はみなタオルで前を隠して歩くが、寺本は何も隠さなかった。
 よし、今なら丸見えだ。
 しかし振り向いて下半身をじっと見る訳にはいかない。明らかに変だ。仕方なく後ろ姿だけを数秒見た。丸い尻がプリプリ揺れていた。
 寺本が湯船に入ると広瀬がすかさず話し掛け、寺本は笑顔でそれに答えた。おしゃべり広瀬は引っ切り無しに話し続け、そこに他の連中も加わって、広瀬は水しぶきを上げながらゲラゲラ笑い転げている。自分の話に自分で受けて大笑いするというのが広瀬の特技だ。オケ団員たちはみな修学旅行気分で大はしゃぎである。寺本は、自分は話していないようだが、みんなの話を聞いてうなずきながら楽しそうに笑っている。
 甲馬はため息を吐いた。何だかつまらなかった。尻は丸いがどう見ても普通の大学生だ。やはり噂はただの噂だったのか。ふて腐れて、頭から風呂桶の湯を被った。
 …別にあんな噂、どうでもいいのだが。



「今夜のオカズです」
 吉村がビデオのパッケージを持って言った。
「お前、何本持って来たの?」
 土井がボストンバッグを覗き込む。
「一晩一本」
「何だよ、今夜は」
「ボンジョールノ、イタリアーノです。今国会議員してる女優さんの貴重フィルムです」
「洋物かあ。苦手だなあ」
 土井は今夜も不満から始まる。
 甲馬は吉村の手からパッケージを取り上げしげしげと眺めながら首を傾ける。
「確かにデカすぎるな、外人は。ま、何でもいいや、ヌければ」
 すると土井が背中を丸め、声を潜めた
「…なあ、寺本が寝てからにしないか?」
「え、仲間外れですか? ひどいなあ」
 広瀬が怒る。
「いや、そういう訳じゃないけどさ…」
 別に寺本に意地悪をしているのではない。ただ、あいつがいると確かに何となく調子が狂って、爽やかにヌけないような気がするのだ。
 そう言えば、寺本がいない。
「広瀬、寺本は?」
「スタジオで宿題してます」
「でも、案外あいつ、洋物なら乗ってくるかも」
 吉村が首を傾げて言った。
「どうなんだ? 広瀬」
「知りませんよ、そんなの、まったくもう」
「あ、そうだ。ロビーに大画面ありましたね。行きましょうよ、デッキ持って。大画面で洋物、きっとすごい迫力ですよ」
 吉村が手をポンと叩いて、妙案だと言わんばかりに甲馬に目配せする。
「馬鹿、あんな所でヌけるかよ」
 そう話していると寺本が部屋に戻って来た。ドアが開くと、みないっせいに向きを変えて布団に寝転び、甲馬はビデオのパッケージの上にうつ伏せになった。寺本がドアを閉めて言った。
「あ、すみません、遅くなって。電気消せなかったんですね。申し訳なかったです」
「いや、別に、まだ、眠いって訳じゃ」
 下を向いたまま甲馬は首を振る。
「歯を磨いてすぐ寝ますから」
 寺本が洗面所に入ると、他の連中はモゾモゾと自分の布団に潜り込んだ。
「電気、消しますよ」
 歯を磨き終えた寺本は、口元をタオルで拭いながら電気のスイッチを消し、壁伝いに窓側の自分の布団まで行って、「おやすみなさい」と言った。

 一時間程経った頃、広瀬が起き上がって隣の寺本を見た。
(寝たか?)
 聞こえないほどの声で甲馬が言った。
(みたいです)
 他の二人も起き上がった。
「コマネチ」
 広瀬が寺本の耳元で言った。寺本は動かない。寝息を立てている。
(ば、馬鹿、起きるじゃないか)
(いや、寝てます。完全に寝てます)
 四人は布団から出てシーツだけ引っ張り出し、頭から被ってテレビの前に集まった。
(やっぱり寺本も起こしてやりましょうよ、コンマさん)
 広瀬は心が痛んでいる様子だ。
(や、やめろよ、低血圧の奴起こしちゃ悪いって)
(ああ、それもそうですね)
 振り向いて寺本を見ながら吉村が甲馬に提案する。
(念のため、板の間に行きましょうよ、起こしちゃうから)
(そうだな。テレビとデッキ運べよ、起こしちゃうから)
 四人の白いオバケは立ち上がった。広瀬と吉村がテレビを持ち上げ、ゆっくりとドアの前に運び始める。土井がビデオデッキを持ち上げ二人の後を歩く。その後ろを、ティッシュボックスを持った甲馬が歩く。
 途中コンセントが抜けそうになり、四人は息を飲んで寺本を見た。
 寺本はぐっすりと眠っている。
(障子、閉まるか?)
(ちょっと無理ですね。コードが引っ掛かっちゃって)
(ま、いいや)
(念のため、テレビ、ドアに向けろよ)

 セリフはイタリア語だ。何を言っているのか解らない。吹き替えしてあるビデオもあるのだろうが、このビデオは直輸入の品だ。吉村が近所のレンタルビデオ屋に足繁く通って店主と仲良くなり、ようやく信頼を得て貸してもらえた貴重な品である。店主は月に一度くらい「いいの、入ったよ」と新着のビデオを貸してくれる。今回合宿に行くと言ったら、店主は親切に九泊分のメニューを組み立ててくれたのだ。
(デカイよ、ちょっと、デカすぎるよ)
 土井が目を凝らした。
(ぼくはこれでいいです)
 広瀬は真剣に左手を動かす。
(違うよ、男の方だよ)
(オレもあんなもんだ)
 甲馬が自慢げに言う。
(嘘吐け)
(馬鹿、見るな)
 クライマックスが来て更にボリュームを下げたので、四つの頭は更にじわじわとテレビに近付いていった。土井が苛立った声を出す。
(何言ってんだか解んないよ)
(イイとかイクとか、どうせそんな感じだよ。喘ぎが聞こえりゃいいんだ)
(それじゃ駄目なんだよ、だから洋物は嫌なんだ)
 クライマックスは長く続いた。しかし土井は何となくしっくりこない。広瀬はまた早くもトイレに駆け込んでしまった。土井が首をひねる。
(やっぱ洋物、駄目だ、おれ)
(おれもです)
 吉村も首をひねった。
(持ってきたの、お前だろうが)
(すみません)
(あああああ、これじゃ絶対ヌけない)
(白人じゃ現実味ないですね)
(うるせえよ、お前ら、集中、集中)
 文句を垂れながらも右手の動きは止めない二人を横目に、甲馬は自分の事に集中した。
(今日はやめときますか、土井さん)
(今更やめられるかよ、これ、どうするんだよ。ああああ、中途半端で気持ち悪いなあ…)
(日本人のに替えます?)
 テレビの向こうで眠る寺本に、土井の目が移る。
(いや…おれ……あっち行ってヌく)
(う、嘘だろ?)
 甲馬の右手が止まる。
(もう待てない)
(起きちゃうぜ)
(死んだように寝てるよ)
 そう言いながら、土井はシーツを被ったまま寺本の枕元に来て座った。
(これは女なんだ、これは女なんだ)
(そうだ、これは髪の短い女なんだ、髪の短い女なんだ)
 いつの間にか吉村も隣に座っていた。大柄な土井が突然立ち上がってトイレに走る。
「開けろ、広瀬、はやくしろ!」
 トイレのドアを平手で何度も叩いた。



「ほら、甲馬、立って」
「……あ、はい」
 教授に言われて甲馬は慌てて立ち上がった。演奏会のメインであるバイオリン協奏曲のソロを弾くためだ。もちろん本番でソロを弾くのは甲馬ではない。無名の学生である甲馬のソロで観客から金を取る訳にはいかない。本番にはベルギーに留学中の卒業生が来てくれることになっている。国際コンクールなどでも入賞しているちょっとした有名人だ。そのソリストとは本番前日のリハーサルまで音を合わせることができないので、それまでは第一コンマスの甲馬と第二コンマスの女子学生が交替でソロの代奏を務めるのだ。
 甲馬が席を立つと、第二コンマスがその席に座り、その隣の学生たちもひとつずつ席を移動した。
 甲馬は指揮者の横に立って再度耳で調弦をした。ボーッとしている間に一番細いE線がかなり狂ってしまったようだ。この暑さと湿気のせいだろうか。E線は駒の近くの小さなアジャスターだけで合わせることが多いが、これでは竿の先の糸巻まで回さなくては音が合わない。
 スタジオの隅には寺本が座っていた。自分の出番は終えたが、部屋に戻らずにここで残りの練習を聴いている。ピアノの宿題はこの部屋以外ではできず、他にすることもないのだろう。
 夕べは大変だった。土井がトイレのドアを壊し、吉村も乱入し、寺本が目を覚ました。ドアを壊したことは宿の管理人にはまだ話していない。寺本はそのまま、また寝てしまった。奴は低血圧だ。
 寺本は脚を組んで腕も組んで甲馬を見ている。ソロを見るのは当たり前だ。気にすることもない。でもせっかく寺本が見ているのだから、ひとつかっこいいところを見せてやろう。そう思ってハンカチを当てて顎で楽器を押さえた。左手でE線の糸巻を回す。
「…あ」
 細い弦が音を立てて切れた。
 よそみをしていたので力の入れ具合を間違えてしまったようだ。後ろから少し笑いが起きた。教授が冷たく言う。
「はい、コンミス、取り替えて」
「あ、はい」
 演奏中にソリストの弦が切れた場合、速やかにコンマスと楽器を取り替える決まりになっている。女性の場合「コンサート・マスター」ではなく「コンサート・ミストレス」なので「コンミス」と呼ばれるが、教授以外は特にみな気にしない。眼鏡を掛けたコンミスは険しい顔をして自分の楽器を甲馬に差し出した。
「汗つけないでよ」
「解ってるよ。オレのにもつけるなよ。高いんだからな」
 甲馬が切れたE線を外して、楽器を彼女に渡しながら言うと、コンミスは舌を出して「嫌な奴」といった顔をした。
 このコンミスと甲馬は何故か馬が合わない。コンマス同士仲良くしなくてはならないと頭では解っているのだが、何かにつけて彼女は喧嘩を売ってくるのだ。二言目には甲馬を「女の敵」と呼ぶ。確かに遊び人ではあるが、別にコンミスと遊んだことがある訳ではないのだから、あまり突っかかるのはやめて欲しい。
「楽器を取り替える練習までするとは、さすが甲馬くんだね」
 教授が譜面台を指揮棒で叩きながら嫌味たっぷりに言う。
「はあ……」
「どうする? その楽器で弾くかい?」
「いえ、今日はコンミスに頼みます」
 甲馬はそう言うと席に戻り、第二コンマスと再度楽器を取り替えた。彼女は嬉しそうに立ち上がり、ソリストの位置に立った。その空いた席に座って、甲馬は決まり悪そうに横目で寺本を見た。すまして座ってやがる。
「行くぞ」
 指揮棒が上がった。
 そのまま彼女の楽器で弾くのもいい経験だった。他人の楽器で弾く機会などなかなかない。体にフィットしなくても構わない。所詮代理のソリストだ。しかしせっかく寺本の前で弾くのに、あの楽器では甲馬の力量は見せられない。彼女の楽器も相当いい物らしいが、甲馬のイタリア製には敵わない。
 新しい弦を張る気力もなく、その日はE線のない楽器で弾くという貴重な練習ができた。


     三

 夕食を済ませた甲馬は、地下の食堂から部屋に戻る途中、一階へ上がる階段の下で立ち止まった。スタジオの電気が付けっぱなしだ。楽器の音が聞こえないので、誰かがいる訳でもなさそうだ。宿の管理人に見つかったらコンマスである甲馬が怒られてしまう。先程やっと室温を二十七度に設定してよいという許可を得たばかりなのだ。
 スタジオに入ると、そこには必死に何かを探す寺本がいた。
「どうした? 寺本」
「あ、甲馬さん」
「何か失くしたか?」
「宿題の楽譜、ここに置いたはずなんですけど見つからなくて。困ったな…」
 いつもすかした顔をしている彼らしからぬ焦った顔だ。
「一緒に探してやるよ」
「…すみません」
「誰かが間違えて持ってっちゃったんじゃないか?」
「はあ、どうしよう」
 二人はしばらくスタジオ中の至る所を探した。一度寺本が探した所も、別の目が、甲馬の目が探したら見つかるかもしれない。
「今日はかっこ悪いとこ、見せちゃったな」
 譜面台の上やゴミ箱の中を探しながら甲馬がつぶやいた。
「何がですか?」
「調弦してて弦が切れるなんてガキみたいだ。広瀬はよくやるけど」
「楽器を取り替える練習したんでしょ?」
 甲馬が驚いて寺本を見ると、寺本は小首を傾げてにっこりと笑った。
 やばい。可愛いぞ、こいつ。
「明日はかっこいいとこ、見せてやるからな」
「楽しみにしてます」
 何が何でもこいつの楽譜を見つけてやりたくなった。
「楽器置き場、行ってみようぜ」
 コンマスである甲馬は楽器置き場の鍵を持っているので、一度部屋に戻って鍵を取って来た。
 スタジオの奥の楽器置き場には大小さまざまな楽器が乱雑に置かれていた。大きな楽器なら部屋まで運べないのは仕方ないが、鍵が掛かっていることに安心してか、高価なバイオリンなどの楽器まで床に無造作に置かれている。この音大に通う学生たちのバイオリンの値段の平均は五百万程だと聞く。
 甲馬は自分の楽器は必ず自分の枕元に置いて寝る。鍵の掛かったこの楽器置き場と、客室と、どちらがより安全かは甲馬には解らない。ただ常に手元に置いておきたいだけだ。
 床の上に散乱したいくつかの楽譜に目を通し、そこにもないことが解ると、甲馬は楽譜を入れるポケットのついたバイオリンやビオラのケースのファスナーを一つ一つ開け始めた。こんな横暴なことができるのは甲馬くらいだ。
「これか?」
「あ、それです」
 寺本はぐったりと肩を落として、ホッとした顔で笑った。無防備な笑顔だ。
「ああ、よかった。助かりました。どうなることかと思った」
「どこの馬鹿だ、ピアノの楽譜しまっちゃう奴。お前も今度から持って返れよ。ほら」
「はい、すみません。破門になるところでした」
 甲馬から楽譜を受け取ると深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
 下げた頭をしばらく上げなかった。
「…お前、普通なんだな」
(可愛いけど)
 寺本は頭を上げて不思議そうに甲馬を見る。
「…いや、何でもない」
「本当にありがとうございました。本当に、本当に感謝です」
 寺本は米つきバッタのように何度も頭を下げている。
「オレじゃなきゃ見つからなかったぜ」
「ホント、そうですよね」
「奢ってもらわないとな」
「何でもご馳走しますよ。ステーキでも、お寿司でも」
 その笑顔が更に可愛らしくて、つい悪戯心が湧いた。
「それじゃあ……」
 からかったつもりだった。
「キス」
 この手のからかいは、純情そうな女の子にはよくする。彼女らは頬を赤らめて黙るか、顔を押さえて逃げ出すものだ。
 ところが寺本はおもむろに甲馬に近付き、首を傾け甲馬の唇にキスをした。
 膝の力が抜け、転びそうになった。
「…な、何だよっ、お前……」
「え? だって、甲馬さんが」
 甲馬は不覚にも頬を赤らめて黙ってしまった。軟らかな唇だった。心臓の音が寺本にも聞こえるのではないかと気が気ではなかった。
 何が何だか解らない。
 大きくひとつ深呼吸をしてから、極力冷静を装って言った。
「行くぞ。今夜のオカズはヒカリちゃんだ」
「はい?」
 クルッと後ろを向いて甲馬が楽器置き場を出ると、寺本もその後を着いて外に出た。甲馬は鍵を閉め、寺本から逃げるように土井たちの待つ部屋に向かった。
 その晩甲馬は体が火照り、せっかく楽しみにしていた和物のヒカリちゃんでもヌけなかった。寺本はよく寝ていた。



「今日は大丈夫か?」
「あ、はい、多分…」
 指揮者の横に立った甲馬が決まり悪そうに言った。夕べ張り替えたばかりのE線がまだ落ち着いていないのは気になるが、今日は何が何でもソロを弾きたい。寺本も聴いている。
 今回のメインはメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲だ。教授のご贔屓の作曲家で、夏の演奏会でもメンデルスゾーンの劇音楽『真夏の夜の夢』を弾いた。俗に『メンコン』と呼ばれるこの協奏曲は、甲馬は小学生の頃からコンクールやら発表会やらで、嫌というほどソロを弾いている。
 楽器を構え、弓を持つ手を上げた。

「かっこよかったですよ、甲馬さん」
 煙草の自動販売機の前の薄暗い喫煙スペースで、寺本が話し掛けてきた。
「まあな」
 かっこよかったに決まっている。オレだ。甲馬さまだ。寺本は煙草を吸わない。
「ちょっとE線がな。休みのたびにアジャスターいじってて、みっともなかったろ、落ち着きなくて」
「そんなことないですよ。すごかった」
 甲馬はメンソールの煙草をゆっくりと吸った。煙草を吸わない奴の前では吸い辛い。しかしここは喫煙スペースだ。
「すぐ音が合わなくなってた。微妙にフラットになっちまって。みっともねえ」
「僕には全然解りませんでした。ピアノは細かい絶対音感なんて要らないから。誰も気が付いてなかったんじゃないですか?」
「先生は気が付いてたさ。コンミスもな。後の連中は知らねえけど。なぁんか、最近思うように弾けなくてな」
 寺本に掛からないように後ろを向いて煙を吐いた。煙草を持つ手も背中に回した。
「顎で楽器を挟む姿、なんか素敵です。弓の毛が切れてふわふわするのも、なんかいい」
 楽器は顎で押さえないと落ちる。弾いていれば弓の毛は多少切れる。特にソロは切れる。甲馬は別に素敵とも何とも思ったことはない。
「それを根元からブチッて切るのも、なんかいい」
 切れた毛は取り除かないと邪魔だ。
「ピアノは普通に座ってるだけだから。バイオリンって、あの不自然な体勢がいいんです」
 言われてみればそうだ。誰が一体あんな持ち方を考えたのだろう。ギターならまだ自然な抱え方なのに。
「首の赤いアザも、いい」
 甲馬は寺本の視線にドキッとして首を押さえた。バイオリン弾きは、楽器を顎で押さえるので左の首に赤いアザができる。
「なあ、寺本」
「はい?」
 別に用はない。呼んでみただけだ。
「…いや、何でもない」
「またご馳走して欲しいですか?」
「いや…そういう訳じゃ」
 寺本は甲馬の肩に手を置くと、昨日よりも静かに唇を近付けた。そして昨日よりも長く押し当てた。
 背中に回した煙草の灰が床に落ちた。煙草を持たない方の手でそっと寺本の背中を抱いた。こいつはオレよりほんの少し背が低いくらいだろうか。こんなデカイ奴の背中を抱いたのは初めてだ。
 唇を重ねるだけの可愛いキスだ。舌を入れたら怒るだろうか。でも何故か心地よい。重ねているだけなのに、やけに甘いキスだ。
 いい匂いだ。男のくせに、こいつは何だかいい匂いがする。
 眩しいな。煙草の自販機の明かりが、妙に眩しいな。
 そんなことを思いながら、甲馬はそっと目を閉じた。


     四

 翌日、スタジオで席に座って教授が来るのを待っている間、甲馬は後ろを向いて譜面台越しに広瀬に話し掛けた。
「あのさ、広瀬」
「はい?」
 広瀬が身を乗り出す。周りの練習の音がうるさくて、お互いの声がよく聞こえない。
「寺本ってさ、中学とか高校の時って、どんな感じだったの?」
「あんな感じですよ。普通ですよ」
「あいつ、普通か?」
「普通ですよ。ま、確かにちょっと色っぽいけど……でも眉毛太いし」
 甲馬は寺本に目をやった。その眉の太い男はピアノの椅子に座って、素知らぬ顔で楽譜を見ている。甲馬は更に広瀬に近付き声を潜めた。
「おい、絶対誰にも言わないから、正直に答えてくれよ」
「はい?」
「驚かないし、笑わないから」
「…何ですか?」
 広瀬が怪訝そうに顔をしかめる。
「お前ら、キスくらいはするよな?」
 広瀬は口元に精一杯の怒りを込めて甲馬から顔を離した。それからギコギコとわざと汚い音でバイオリンを弾き始めた。
「やめて、うるさい」
 コンミスに怒られて広瀬はシュンとする。
「なあ、キスって、挨拶みたいなもんなのかなぁ」
「あのですね、ここは日本ですよ」
「やっぱそうだよなぁ。普通しないよな」
 でも確かしたよな、夕べ。しかも二度目の。あれはいったい何だったんだ。
 甲馬がまた寺本を見ると、今度は寺本が甲馬の視線に気付き、甲馬は慌てて視線を逸らして反時計周りに前を向く。その拍子に隣のコンミスの右肘に甲馬の腕がぶつかってしまった。
「ちょっと、気を付けてよ」
 何だよ。そっちが右腕を張り出し過ぎたのが悪いんじゃないか。オレのせいじゃない。
「うっせえよ」
 ああ、イライラする。
「何ですって?」
 この女に八つ当たりしたって仕方ない。
「お前、何なんだよ、いつもオレに文句ばっかり言って」
 イライラが止まらない。
「別にそんな…」
「オレが何したっていうんだよ。オレに不満ならオケなんてやめちまえ!」
 眼鏡の女は涙を溜めて立ち上がり、走ってスタジオを出て行ってしまった。

「コンマさん、やばいですよ」
 コンマス同士の会話を一番近くで聞いていた広瀬が心配そうに言った。
「そうだよ、あれはひど過ぎるよ」
 土井も同意した。
「そうか?」
 あの後、第二コンマスは部屋にこもってしまい、午後の練習にも現れなかった。オケは第二コンマス不在のままその日の練習を終え、廊下の灰皿の周りにオケ団員四人は集まった。
「そうですよ」
 吉村も甲馬を責める。
「泣いてましたよ」
「オケやめるって言ってましたよ」
 甲馬は胸ポケットからメンソールの煙草の箱を出し、長く細い煙草を一本抜いた。
「お前、成人なんだろ? 大人の自覚を持たなきゃ」
 土井が百円ライターの火を点け甲馬に差し出した。
「サンキュ。一本要る?」
「いいよ、そんなの。不能になっちゃう」
 甲馬は煙草をくわえ、土井のライターで火を点けた。
「その伝説が間違えてることはオレが身をもって立証済みだ」
「これからの練習、どうする気ですか? 謝った方がいいですよ」
 広瀬は心配性だ。
「謝ったって、どうせ許してくれないだろうけどな」
 甲馬は上を向いて空中高く煙を吐く。
「東京に帰るとか言ってましたよ」
 煙草くらいゆっくり吸わせてくれ。今日は慣れない譜めくりをして疲れているのだ。
 戻って来た時に自分の席が埋まっていたら気分を害すだろうと、今日はコンミスの席はずっと空席だった。事態を察した指揮者もそれを許した。だからいつもはコンミスがやってくれる譜めくりを甲馬がしなくてはならなかったのだ。
「オレ、メシの前に風呂入ってくる」
 甲馬は灰皿に煙草を押し付けながら言った。
「もう入れるんですか?」
「知らねえよ。身を清めたら後で謝っとくわ」

 我ながら大人気なかった。イライラしていたとは言え、あんなことを言ってしまって、実はかなり落ち込んでいる。
 激しい性格なのでカッと来ることはよくある。高校までは手が出てしまうこともあった。指をかばいながら同級生を殴ったことも何度かある。しかし二十歳を過ぎてまで、売り言葉に買い言葉だったとしても、あれは言い過ぎだった。謝ったら彼女は許してくれるだろうか。
 風呂場の脱衣所に入ると、既に誰かが入っている水音がした。甲馬は鼻歌を歌いながら服を脱ぎ、タオルを持って風呂場のドアをガラッと開けた。
「あ、甲馬さん」
 鼻歌が止まる。広い風呂の洗い場には、そのイライラの元がいた。
 甲馬はためらいながらもその男の隣に座り、シャワーヘッドを手に取った。
「一番風呂、取られたな」
「まだ沈んでませんよ」
 この男は風呂場で股間を隠さない。しかし元気のない寺本の物は細い腿の間に入ってよく見えない。シャンプーの終わった寺本は、スポンジに液体石鹸を含ませ腕を洗い始めた。隣の甲馬を見た。目が合う。
 しばらくそのまま二人は動かずに見つめ合った。
 先に目を逸らしたのは甲馬だった。目を泳がせながらシャンプーを手に取って思い切り頭を掻いた。
「甲馬さん、すごい体してますね」
「え? あ、え?」
 そうだ。ここは風呂だった。お互い裸だ。そういうお前だって、細い割に結構筋肉質じゃないか。そう言おうとしたがやめておいた。風呂場で野郎同士が裸で体を褒め合うというのも、あまり気持ちのいいものではない。
「鍛えてるんですか?」
「あ、うん、まあな。走ったり、泳いだり」
 ガキの頃からバイオリンを弾いているが、基本的には外で体を動かす方が好きだ。暇ができるとスポーツ・ジムやプールに通って筋トレに励んでいる。
「っていうか、遺伝だな。うちの母ちゃんがすげえ逞しいんだ。母ちゃんの蹴りがミゾオチに入っちまった日にゃあ、もう…」
「水泳選手みたいですよ。お尻、小さいし」
 おい、こいつ、いつの間にオレの尻を見たんだ…。そういうオレも、こいつの尻は何度も拝んだ。だって丸いんだもん。挙句に前も見ようと努力しているなんて、口が裂けても言えない。
「お尻小さいけど、前は大きいですよね」
 ………え?
「普段からそんなに大きいんだ」
 下を向く。タオルがずれて丸見えだ。慌てて隠す。
「……あ、そうか? まあな、ははは、はは、こっちも日頃鍛えてるからな。凶器と呼んでくれ、なあんてな、あは、ははは…」
「一番風呂、取っちゃいますよ」
 立ち上がった寺本の股間が一瞬甲馬の目の前に来た。しかしすぐに寺本は湯船に行ってしまった。一瞬の出来事だったので、甲馬の目には茂みの残像しか残っていない。しかし寺本に大きいと言われた凶器が、自分の意識とは裏腹に更に大きくなってきた。
 シャンプーの泡を流す前に体を洗い始めた。ごしごしと猛スピードで洗い、頭と体の泡をシャワーで勢いよく流し、甲馬もいそいそと湯船に向かった。
 寺本の隣に腰を下ろす。肩まで沈む。肩と肩が触れ合う。湯の中を見ると、寺本の股間も大きくなって揺れている。甲馬には敵わないがなかなか立派だ。それを見た甲馬も、更に大きく硬くなって揺れた。
 手を伸ばして、水滴の付いた寺本の下唇に触れてみた。そしてそこに自分の唇を押し当ててみた。寺本が舌を入れてきた。たまらず甲馬は寺本の体を抱き締めた。温泉のせいもあるだろうが、寺本の肌は滑らかだった。
「いれます?」
 唐突に聞かれ、言葉を失う。
「僕がいれていいですか?」
 ……………今、何て言った?
「いれますよ。そっちの方がはやい。ちょっと立って下さい」
 …え…そうなの? オレが…そっちなの?
「はやく、立って。誰か来ちゃいますよ」
 言われるがままに立ち上がると、寺本は甲馬を回れ右させた。
「屈んで下さい」
 背中を押されて前屈する。…って、どうして言いなりになってんだ、オレ。
「うわっ」
 な、なんだ、これ? ゆ、ゆび?
「お湯で軟らかくなってますね。これなら大丈夫です」
 意味が解らん。
「力抜いて下さい」
「いでっ」



「どうした、甲馬」
「……は、はい?」
 教授が甲馬を指差す。
「モゾモゾするな。コンマスならしっかり座ってろ」
 一晩経ったのに尻の穴が痛くてじっと座っていられない。さっきから教授に叱られてばかりだ。
 あの後、寺本が五、六回腰を動かしたところで脱衣所のドアが開く音が聞こえ、寺本は即座に抜いて湯船に沈んだ。甲馬もすぐ風呂場を出て行くのもはばかれ、大人しくしばらく肩まで湯に漬かっていた。
 痛い。
 夕べはうつ伏せで寝たが、それでも痛みは軽減されることなく、枕を抱き締めて何とか痛みを堪えながら眠りに就いた。
 隣の眼鏡の女を見た。そっぽを向かれた。
 あの後すっかり弱気になった甲馬は、夕食の席でコンミスに頭を下げて謝った。絶対に許さないと彼女は言ったが、甲馬はそのまま頭を上げなかった。下を向いて痛みを堪えていたのだ。
 部屋では誰とも一言も話さず、今朝の練習の間も、ずっと冗談一つ言わず神妙であった。何度もため息を吐いた。団員の誰もが「相当反省しているのだろう」と思った。そのくらい意気消沈していた。モゾモゾと落ち着かないのも神経が高ぶっているせいだろうと勘違いされた。考え事をするようによそみをして何度も指揮者に怒られ、見かねた第二コンマスが耳元でささやいた。
「もういいから。だからちゃんと弾いてよ」

つづく
スポンサーサイト

テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

 | HOME | 

FC2Ad

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。